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初めて書いた短編 誕生

沢田圭介 サワダケイスケ








 帰りの電車 時刻は23:24
 沢田圭介は、いつもより少し遅めの電車に揺られ、平日にも関わらず電車の床に突っ伏して寝ている中年サラリーマンを横目に、乗り換え駅に着いたことを確認する。

 いつからか癖になった、左足に跨いで乗せる右足をスッとほどき立ち上がる。座る時は両足を地面にしっかり付けて、骨盤が歪まないように座らなければ腰にも痛みがくるようになり、何よりそれが癖になると見た目も良くない。どこかで聞いたことがある話を思い出す。

 乗り換えの電車では人がたくさん乗るので基本的には座ることはできない。だからこそしっかりと両足をつけ腰を伸ばし立つことを心掛けている。

 小さな癖だ

 目の前には立ち寝をしているサラリーマンが、下っ腹が出た身体を上手に支えて今日の疲れを自分だけの世界で癒している。
 その隣には飲んだ帰りだろうか。
 若い女性2人組が露出の多めな服を着て、2人にしかわからない世界で楽しそうに話している。
 圭介は今日も誰にも身の上話しをしてない。この後家に着く前のコンビニで酒を買って帰ろうか、それとも酒を呑まず部屋の片付けをして、仕事に手をつけるべきか考える。

 ふと1人になったあの日から、家で1人で酒を飲み、過去の記憶を思い出しては恥ずかしい気持ちになる自分を、惨めではなく進歩だと自己肯定する。そんな時間をアルコールに任せて、ぼうっと過ごすことが多くなった。

 23:46 最寄り駅に着く
 今日という日を終える人たちの群れをただただ歩いている圭介は、酒を買いに行こうと少し汗ばんだ服をパタパタと動かしながら、ただ喉が渇いているだけだと言い聞かせるようにコンビニへ向かった。

全部わかるんだよ。私。

 夜は最寄り駅に迎えに来てくれ、身の上話しを興味津々に聞いてくれ、自分が辛かった時にそばにいてくれた人が、笑顔の残像が、今も記憶の大部分を占めていることがわかってしまう。だからこの時間に帰るのはいやなのだ。圭介の目の前で、涙が止まらない彼女がいた夜。圭介は何もできずに、ただ傍観していた自分の過去を悔やむ。
 暗闇の中で誰にも見えない場所があるのなら、一生そこに閉じこもって深く生い茂る木々達に、過去に馴染んだ記憶を塗り付けているだけなのだろう。そんなことばかりを考えては、アルコールの力で現実から逃げる、小さな悪い癖だ。

「あなたは色々考えすぎていつも行動が後になるよね、別にそれがどうって訳じゃないけど自分でもわかるでしょ?その変な癖を直した方がいいってことくらい。まぁ人のことを根っこから考えられる人間とも言えるけどさ、でもあんまり身の上を離さないから結局伝わんないし。もう少し自分の中で大切な芯ってものを持ってたほうがいいと思うよ。」

 缶酎ハイ片手に散らかった部屋を片付けながら、先週職場で言われた言葉がチラつく。ひとりで部屋の掃除をしている間、様々な感情が、あまり良いとは言えない感情達が耳と両足を揺さぶる。

「はい、、すみません。」

「でも沢田さんは沢田さんの良さを自分で見つけている最中だから、私たちが何をいっても結局は沢田さん次第なところもあるんだよ。それも分かってもらう意味でも少し意見しちゃったけど、これから先が大事だからね。何を考えてどう変えていくか。うちらの業界もそんなに簡単じゃなくなってきたし、SNSの時代だからこそ大手メディアの出す記事はより正確に、よりインパクトと感情を揺さぶるものでないと生き残れなくなるの。だからこそ、取材先との関係やうちらとの会話も大切だし何よりも、沢田さん自身が世界と繋がってどうすれば記事が読まれるか。そこを考えて、あ、でも考えても分かんないことの方が多いから、基本は足を運んで行動だよ?そこんとこ、肝に銘じてよろしくね。」

 じゃあまた明日ね。
机の上に散らばっていた書類たちをいつ片付けたのか。そう思っているうちに椎木さんの足音だけが少し聞こえたと感じた途端、会議室の扉がバタンと閉まった。遠くからは廊下をコツコツと足早に歩く椎木さんのヒールの音と、同僚であり圭介の2つ年上である神田峯子が、女性2人だけの世界で楽しそうにしている声がしっかりと届いてきた。耳がいたい。圭介には扉が閉まり1人残されるこの状況が、自分は世界と繋がれと言われているのに、強制的に世界から切り離された感覚。あなたには何もないからここに居なさい。と、突きつけられているような感覚で胸が苦しくなった。地面にしっかり付けていた両足がぐらつく。
 深呼吸をして時計を見る。

「沢田さん自身が世界と繋がってどうすれば記事が読まれるか。そこを考えて、」

 21:25 今日はこれで帰るだけだ。頭の中の視点を帰ることに集中すればするほど、椎木さんに休む暇もなく言われた言葉達が、どっしりと形を持って脳にこびり付いていることに気付く。




 洗わずに台所やテーブルに置いたままのお皿達を見て、いつからまともな生活をしていないのか考える。缶酎ハイのゴミは溜まっていて、これまで無駄な時間を過ごしてきたかのような気持ちになる。
 朝に起こされ、2人でゴミ袋を持ってアパートの表にあるゴミ捨て場へ行ったあの日々は、もう半年以上前だ。ゴミを出した後の気持ちがいい朝に、布団の中で2人が求め合ったあの空間は、もう別の場所になっている気がする。
 皿にこびりついたご飯粒や汚れは、少し力を入れて洗剤と一緒に洗えば綺麗に取れた。


 世界と繋がるということは、圭介にとっては長年一緒に居た菅野佐江たった1人だけだった。1つ年下の佐江は、圭介が出来ないことをそつ無くこなし、いつも頼りになる完璧な女性だった。圭介がかつて追っていた漫画家としての夢を誰よりも応援してくれ、ある時初めて全国に載る連載漫画誌の一部に圭介の書いた漫画が掲載された時は、全く泣けるような内容でもないのに、佐江は涙を流しながら1ページにも満たないその漫画を噛み締めるように何度も何度も読んでくれた。

「すごいじゃん、本当にすごいね」

 涙で濡れた頬を気にする様子もなく、太陽のような笑顔で真っ直ぐと圭介の目を見て伝えてくれた。どんな称賛の言葉よりも、佐江から放たれるこの言葉だけが、圭介とこの世界とを繋ぎ引き止めてくれていた。
 圭介は漫画を描くことに満足してはいけないと思いながらも、その時佐江の頬を濡らしている涙や笑顔を守れるのなら何もいらないと本気で思った。圭介は佐江と一緒にいる間は、両足でしっかり立つ自分がそこに存在していると感じれた。


 お皿を洗った後に、もう一度部屋を見渡すと、壁には佐江との思い出の写真や手書きで書いてくれた圭佑への手紙が目に入る。
『あなたはよくやっている。このまま変わらず頑張ってね!いつも応援しています。愛してます。』

 床を見ると明後日までに払わなければいけない公共料金の支払い用紙や、蓋がない空のペットボトル、たばこの吸い殻が目に入る。ペットボトルの蓋はちゃんと閉めて捨てなきゃだめだよ。あの日の佐江を思い出す。

「なんでだろうな?」
「なんでってことはないでしょ?飲んだ後はキャップを閉めてゴミ箱に入れるだけだよ?」
「わかってるんだけどなぁ」
「ほんとかなー?ん、なんで笑ってんの?あー!また私の顔を見て笑った?もう、ふざけないでよー」
「ごめんごめん、気をつけるよ」
「蓋はちゃんと閉めて捨てなきゃだめだよ」

 そんな佐江の姿はとても愛らしかった。圭介は多様に変わる佐江の表情に飽きることはなかった。そんな顔をずっとみていたいと思うほど、笑ってしまうほど、大切だった。その顔を見るだけで、自分はまだここにいて良いと肯定されている気がした。佐江の顔をみて笑う自分がいることが嬉しかった。


 片付けた部屋のゴミを捨て、綺麗になった部屋を眺めながら換気扇の下でタバコを吸う。換気扇にはまだ掃除されてない埃が残っているが、この時間からはやめとこうと思った。また次の休みでやればいい。さっき買った缶酎ハイの2本目に手を伸ばし、タバコの煙と喉を通る冷たいアルコールにだけ集中する。


 
 涙が出そうになる。まただ。泣きたい訳でもなく、悲しい訳でも無い。日々をただ、次から次へと起こる事象や事柄に、揺さぶられ、それでも両足に力をこめていようと必死になっているだけなのだ。
 なにも嘘などない。必死なのだ。タバコの煙が目に入らないように目を閉じると、目に溜まっていた涙の粒達がポツポツと流れ落ちてきた。今こうやって涙が溢れてきた自分のことを、誰が癒してくれるのか。そんな他責の念が脳に駆け巡り、自分はつくづく寂しい人間だと気付く。

 
 この気持ちを世の中の天才アーティストや小説家達は、上手く的を得た言葉や方法で表し、誰かに勇気を与えようとするのだろう。そして救われた人間達からの称賛を得て、また次の力にするのだろう。自分はいつでもみんなの味方であると、いつまでも誇示し続けるのだ。それが正義になった世界で。


 自分というテーマの本があれば、とても賞賛を貰えるものではないだろう。圭介の心は深く深く、タバコの煙と共に潜っていく。愛情を人に求め、仕事上での人間関係はとても苦手で、自分1人では何もできないと卑下する反面、それでも自分の居心地がいいところを見つけてもらい、他人に認めて欲しいと願う。そんな人間の事を誰が興味を持つというのだ。

 佐江という存在がいなくなってから自分は変わってしまった訳ではなく、元からこうなのだ。
 そして佐江は、圭介の居心地が良い場所に欲しい言葉を投げかけてくれる、優しく愛情に満ち溢れた女性だったのだ。だが圭介は、その暖かさに気付かなかった。いや、本当は痛いほど分かっていたはずなのに、そこにはしっかりと蓋をしたのだ。夏の日の夜に。崩れそうな心を守れなかった。


全部分かるんだよ。私


 佐江が言ったこの言葉が、タバコの煙と一緒に換気扇の中に吸い込まれていくが、埃に邪魔される。行き場の失った言葉はいつまでも部屋の中を漂い、いずれ空気と混ざり合い、圭介の肺に呼吸として吸収されていった。





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