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ジャイアンが闇堕ちしてのび太になってから始まる物語

こんにちは、「わつなぎ」といいます。

人の「輪」や「和」、
「話」をつないでいきたい、
そんな想いでネーミングしました。

現在は、ブログを育てていて、言葉を通して、
読者さんとの「輪」をつないでいるところです。

ブログを始めようとしたキッカケは、母の闘病生活を支えるために、
少しでも収入を上げたいと奮起したことでした。

それまでの私は、なんの努力もせず、目的や目標もなく、
ただ淡々と生きていました。

ジャイアンから「のび太」になる


小学生のころは、ジャイアンのように、
勉強せずにケンカばかりして過ごします。

卒業式にもらった、クラスのみんなが書いた寄せ書きの色紙には、
ひとりも漏れなく「ケンカはやめようね」と書かれてありました。

卒業式という場で、クラスのみんなに、
「ケンカは良くない」と注意されたおかげで、
中学生以降、ケンカをやめることができました。

ただし、思わぬ副作用が起き、
ジャイアンからのび太になってしまいます。


「春が来た」と勘違いする


中学生になると、イジメを受けるようになります。

学年のほぼ全員から嫌われて、友達もいなくなり、
「孤独」ってこういうことなんだなって、
居場所のない中学生活を送りました。

小学生のときの反動が出てしまったのかもしれません。

しかし、中学3年生になってから、
初めて女子に告白することができ、OKをもらえます。

「春が来た!」

初めての彼女だし、ずっと好きだったので、
ほんとに嬉しかったです。

しかし、喜んだのも束の間、
初めて彼女を学校から自宅へ送るとき、
彼女との距離が「3メートル」くらい空いてるのです。

「スネ夫のイタズラかな?」

なんて、茶化せないほど、ショックで。

初めて女の子と一緒に帰る体験だったので、どうしていいのか分からず、
照れてるから離れてるのかなって、思っていました。

あとで、小学生からの友達に、

「あの子、罰ゲームでお前と付き合ってるって」

と教えてくれました。

「春が来た!」ってほんとに感じたのですが、
勘違いをしてしまったようです。

もしかしたら、のび太くんの方がマシかもしれませんよね。

書きながら思い出したのですが、小学生のときは、
バレンタインデーに初めてチョコをもらった時、
中身に正露丸が混ぜてありました。

好きな子からもらえたので、すごく嬉しかったのですが、
正露丸入りチョコのおかげで、現実は甘くないことを、
すでに思い知らされていたのかもしれません。

のび太から出木杉君に「なり損ねる」


高校生になると、学区も変わり、環境が変わります。

新しい人との出会いもあり、
勉強も、部活も充実していました。

本当に好き同士で付き合える彼女もできて、
学校へ行くのも楽しくなっていきます。

でも、受験で失敗します。

よく受験生が恋をすると失敗する、なんて言いますが、
私はその噂を証明した人間の一人です。

一つ年下だった彼女にベタベタで、
毎日会いたいし、話したいし、一緒にいたい、
自分のことを考えず、彼女に没頭した日々を過ごしました。

そうやって将来を真面目に考えず、出木杉君になることもできず、
しずかちゃんと結婚することもできない、のび太になっていったのです。

しかし、現実版のび太には、頼れるドラえもんがいません。

「助けて!」と叫んでも、「どうしたの?のび太くん!?」
という声は聞こえてきませんでした。


詐欺師も認めた「いい人」


就職面接のために会社へ向かっていたある日。

Googleマップを頼りに近道をして、
少し路地裏に入ったところで、倒れている「お爺さん」を発見しました。

お爺さんは杖とともに大の字に倒れていて、
向かいの家の女性は、ただ眺めているだけの不思議な状況でした。

「なぜ助けないんだろう?」と、疑問に思いながら、
駆け寄って、お爺さんを抱き起こしてみると、
ヒザを擦りむいて出血もしています。

「大丈夫ですか?」と声をかけると、

「すまんねぇ、ちょっとコケちゃって」
「目の前が家なんだけど、みんな留守だから入れないんだよ」

お家に目を向けると、結構大きなお家です。

するとお爺さんは、

「すまないが、お腹が空いて動けそうにない」
「食べ物を買いたいからお金をくれないか」

と申し訳なさそうにおっしゃいました。

当時の私は、人を疑うということができず、
「かわいそうだ」と思って、
1000円を手渡しました。

財布には1600円があって、
帰りのバス代600円を残して、残りを差し上げました。

お金を手渡すと、お爺さんは少し驚いた様子で、

「アンタは本当にいい人じゃ」

と言います。

私は「すみません、就職活動中なのでお金なくて」
と申し訳ない気持ちで声をかけていました。

冷静に考えて、
「ちょっと何言ってるのかわかりません」的なことを言ってますよね。

自宅に帰って母親に経緯を話すと、

「なにやってんの」

と飽きられてしまいました。

そういえば、お爺さんのまわりにいた人たち、
「またやってる」みたいに呆れた表情してたかも。

周囲の状況を察することもできない、アホな「のび太」だったんです笑

その後、お爺さんには会えていないので、
ほんとに騙されたのかまでは、わかりませんが。

人の言うことを信じて疑わない子だったんですね。


母の闘病とともに生きる


無事に就職ができ、新しい人生の始まりと思ったのですが、
同時に母の体調が崩れていきました。

最初は高血圧で入退院を繰り返し、
フラついたり、寝込んだり、と目が離せなくなります。

仕事も母の体調に合わせられるように、
シフト制で融通がきくような環境を探しますが、
当時は、リーマンショックなどの影響もあるのか、難しい状況でした。

急な休みに対応できなければ、辞めて次を探す、といった環境になります。

結果として、職を転々とすることになりました。

母の体調は、波のように回復と悪化を繰り返し、
とうとう癌と診断されます。

最先端の治療から、保険外診療まで、あらゆる治療を試しました。

いっときはガンが消えかかったのですが、
どの治療も決定的な回復には至りませんでした。

看病には朝も夜もなく、24時間看つづける状態となっていきます。

ガンを患って、4年目の夏、
夜通し看ていて疲れてしまったので、うたた寝をしてしまいました。

起きて、母のベッドにいくと、母の姿がありません。

目を下にやると、
ベッドから落ちて、動けなくなっている母がいました。

急いで抱き起こし、救急車を呼びます。

同時にお世話になっていた、地域医療センターのお医者さんを呼びました。

先生によると、血中酸素が低下していて、
すぐに入院の必要があるということでした。

緩和ケアでお世話になっていた病院に入院しますが、
コロナが発生し、面会不可の状態になってしまいます。

顔を見たくても、会えない、そんな日を送りました。

しかし、入院して1週間後、
朝の4時に病院から電話が鳴ります。

「お母さんが危ないのですぐに来てください」

「ちょっと早くないか」
「入院して1週間で、そんなことになるの!?」

そんな気持ちでいっぱいでした。

20分で病院に到着。

コロナで会うことができなかった母にようやく会えますが、
意識はなく、声を聞くこともできません。

午前5時10分。

目の前で、
母の呼吸が止まりました。

当直の医師から、

「ご臨終」

を伝えられます。

私は末っ子として生まれたので、
母からすごく愛されていたそうです。

近所のおばちゃんたちが、そう教えてくれました。

最後の1週間、顔も見れず、
声を聞くこともできず、母は逝ってしまいます。

自宅で看ていたとき、
呼び出しベルを買って、何かあればいつでも呼ぶように伝えていました。

でも、母は、一度しかそのベルを使いませんでした。

母の性格から、気を遣わせたくなくて、
ベルを押さなかったんだろうなって。

母親って、特別な存在だと思うんです。

母から生まれてきたから。

だから、ルーツを失ったようで、
喪失感というものを初めて感じた日でした。



振り返ると誰もいない


実は、母を亡くした前年、妻も失っています。

仕事をしながら、母の通院や生活介助をしていたため、
自宅と実家、病院を毎日行ったり来たりしていました。

最初は妻も手伝ってくれたのですが、
疲れさせてしまったのか、途中から拒絶されるようになりました。

さらに精神的に不調をきたしてしまい、離れることになります。

母親の看病をするあまり、夫婦としてのコミュニケーションを
怠ってしまい、心に余裕を持てていませんでした。

申し訳ないことをしてしまった気持ちでいっぱいです。

「なぜこんなことになってしまったのだろう」

と、受け入れられない日もあります。

3年間、ずっと動きっぱなしだったせいか、
体がずっしりと重くなり、仕事も手につかなくなりました。

家族も失って、生きる目的というか、
生きていく理由を失っていきました。

1年間、仕事ができず、家族と仕事とお金を失くしました。

「人生がうまくいかない人は、生き方が間違っている」
ということを聞いたことがあり、自分自身を見つめ直します。

「失う」ということは、誰かから「奪ってきた」のかもしれない。

体が辛くて、良い方向に考えることが難しい状態でしたが、
心から「変わりたい」と願っていたんだと思います。

1年間、動けない間、重たい空気の中で、ひたすら考えていました。


人は相手がいることで無限のパワーを発揮できる


ひたすら考えていると、いくつか言葉が浮かんできました。

今まで「相手のために」という意識のあるものには、
力が尽きることなく、行動できていたこと。

母親が私の名前をつける時、

「歴史に名前を残すような人物になってほしい」

と言っていたこと。

心臓が止まるまで、

「できることをやって行ったほうがいい」

という意識。

逆に、「自分のこと」に意識を持つと、
なにも続けることができません。

家族がいなくなって、ひとりになってから、
生きていくために仕事をしようとしても、続かず、
自分で何か始めようとしても、勉強が続かないのです。

もちろん、死ぬ気はないのですが、
エネルギーがうまく回っていない、そんな状態。

人って、なんていうか、相手のためなら「頑張れる」存在なのかな、
そんな気がしています。

目の前に相手がいることが、
どれだけ素晴らしいことなのか、
そばにいる人の有り難さを痛感しました。

母の介護費用を賄うために始めたブログ


母の闘病生活が始まって、
通院生活に合わせていると収入が安定しません。

だから、何か副業をと思って、ブログを始めました。

しかし、サイトの作り方まではできるのですが、
記事が書けません。

そもそも記事って何なのか、どんな書き方すればいいのか。

全く分からず、時間だけが過ぎていきました。

このままではいけないと思って、
ライティングのコンテンツを探します。

投資できるお金もなかったので、
あまり費用のかからないコンテンツに参加しました。

始めていくと、
運営者の方は丁寧に添削してくださり、
特待生として、無期限でコンサルを受けれるようになりました。

しかし、運営者の方の体調が優れず、途中で止まってしまいます。

「これから」という時に、指導者を失ってしまうのです。



人生にはコンパスが必要


進むべき道を示しれくれる存在が、
いるのと、いないのとでは、安心感が違います。

「答え」を求めて、Googleで検索をしても、
人生の「答え」までは出てきません。

指導者を失って、気がついたことがありました。

記事の書き方を学んで稼いで、
医療費の足しにすることが目的だったので、
ただ書き方を学べば、稼げるだろうと勘違いしていました。

でも、ネットビジネスの業界に、
10年以上いる方々のコンテンツには、
「本質の理解が重要」と書かれてあり、
私は勘違いをしていたことに気がつきました。

ただコンテンツを作っても、稼げないし、稼ぎ続けることもできない。

また迷子になりそうになったので、
原点に帰ろうと考えて、今までの教材を見直しました。


わつなぎの世界観


このnoteを通して、あなたと、
あなたが求めている道を繋ぐことができるなら、
私の使命である「わつなぎ」が役立てることに幸せを感じます。

私は、関わる人の「輪」「和」「話」をつないでいき、
歴史に名前を残します。

でも、ひとりではできません。

ご縁のある、あなたとつないでいければ、
こんなに嬉しいことはありません。

「悪いことのあとには、良いことが起きる」

振り子の法則って言うらしいんですが。

私は、人生の前半で、
家族と仕事とお金を失い、
人間関係のほとんどをなくしました。

だから、後半はたくさんのご縁に囲まれるイメージがあって、
これからが楽しみだし、あなたにも良いご縁に恵まれてほしい。

出木杉くんみたいに、容姿から家庭環境まで、最初から全て揃っていたら、
改めてその「良さ」に気がつけないですよね。

(決して出木杉くんが嫌いなわけではありません笑)

これから「わつなぎ」の後編が始まります。

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