クイズにおける正しさについて

競技クイズの問題を作る時、必ず行わなければならないとされる内容の1つに「裏取り」があります。これは、問題の題材となっている情報が正しいかどうかを確認する作業のことを指したものですが、ここでいう「正しい」とはどういうことかについては、あまり議論されてこなかったように思います。そこで、本稿ではクイズにおける「正しい」をどう考えるべきかについて考察してみたいと思います。

出題者と解答者の考える「正しい」の拠り所

クイズは出題者と解答者がいて成り立つものです。出題者は答えとなるべき情報を想定し、それを疑問文として解答者に提示します。解答者は提示された疑問文を元に、出題者が想定した情報を推定して答えます。

知識をベースとする競技クイズでは、「正しい」とされる情報がクイズの題材となります。このとき、出題者・解答者がそれぞれ十分な調査リソースを割いた時に、両者がそれぞれ「正しい」と考えるものが一致している状態でないと、クイズは成り立ちません。もし出題者が「正しい」と考えるものと解答者が「正しい」と考えるものが異なっていたら、解答者は出題者の正誤判定に異議を唱える結果となるでしょう。なので、出題者と解答者の間で合意が取れるような、何かしらの「正しい」の基準があることが知識ベースのクイズの前提条件になります。


『競技クイズの出題範囲を考える』(https://note.com/wattson496/n/n124f49e6bb4c)及び『クイズ問題の「出題価値」について 』(https://note.com/wattson496/n/ncf1fda0a6310)の中で、クイズの題材はE.D.ハーシュの唱える「文化リテラシー」だとする説を紹介しました。この「文化リテラシー」というのは、ざっくり言えば人が文章を理解する際に必要な個別具体的な背景知識のことです。

この文化リテラシーはどの文化圏内で考えるかによって変わってくるものです。クイズの題材として考える場合、大会のレギュレーションのような、そのクイズに参加しうる人全体という枠組みで考えた文化リテラシーが、題材として妥当なところではないかと思います。フルオープンの大会なら、日本人(ないし日本語話者)全体を対象とした文化リテラシーを考えれば良いでしょう。

この時、「正しい」ということについても、この文化リテラシーをベースに考えることができそうに思います。出題者にしろ解答者にしろ、個々人ではそれぞれ様々な「正しい」の信条を持つことができますが、「日本人全体の中で一般にどう信じられているか」は、個々人の信条とは別個のものとして、推定することができます。

たとえば、日本人の間では、「日本で一番高い山は富士山である」というのが正しいと信じられているとします。このとき、Aさんが「日本で一番高い山は北岳である」と信じていたとしても、Aさんは「(私からすれば間違っているが)日本人の多くは『日本で一番高い山は富士山である』と信じている」という風に推定することは可能です。なので、出題される情報の正しさを「日本人の多くが正しいと信じているもの」とすることを前提していれば、Aさんは自身の信条とは無関係に「日本で一番高い山は何でしょう?」という問題に対して「富士山」を正解であると考えることができるようになります。


なので、日本人を対象としたフルオープンの大会において、出題者と解答者が共通して「正しい」の拠り所とすべき基準は「日本人の多くが正しいと信じていること」になると考えられます。

出題者の立場になって、正しさを保証するための裏取りについて考えると、「『日本人の多くが正しいと信じている』と十分な調査を行った解答者が推測できるかどうか」を確認するのが、クイズの裏取りの目標ということになるでしょう。

Wikipediaのガイドラインとの比較

以前の記事で、出題対象として適切かどうかの基準をWikipediaの「特筆性」の概念と比較することを行いました。Wikipediaのガイドラインはこうした部分について非常によく考えてまとめ上げられているので、今回もこれとの比較を行いたいと思います。

Wikipedia:検証可能性によると、Wikipediaでは「真実であるかどうか」ではなく「検証可能かどうか」を基準に執筆の是非が議論されています。

ここでいう「検証可能」というのは、「真実であるかどうかを検証できる」ということではありません。そうではなく、「信頼できる情報源に公開されていることを検証できる」という意味になります。したがって、Wikipediaの記事ではその"信頼できる情報源"に書かれてある情報そのものが真実であるかどうかは確認しないことになっています(Wikipedia:独自研究は載せないも参照)。

では「信頼できる情報源」とは何でしょうか。これはWikipedia:信頼できる情報源のページに書かれていますが、ここでは明確に信頼できるかどうかの定義は書かれていません。信頼できる情報源のいくつかの類型や特徴について書かれている形です。ここには以下のようなものが挙げられています:

  • 複数の独立した立証がある場合は、そうでない場合より信頼性が高い

  • 事実確認や編集者の監視など公表まで複数段階を経た情報源は、そうでないものより信頼性が高い

  • 確度の高い情報と思惑や憶測の域を出ないものとを区別して書かれた情報源は、そうでないものより信頼性が高い

  • 情報を集めた手段を再現あるいは検証できるものは、そうでないものより信頼性が高い

  • 情報源が誰かをはっきりと表明したものは、そうでない情報源より信頼性が高い

  • 情報源を単に確認するだけではなく引用しているものは、そうでない情報源より信頼性が高い

  • 専門分野の情報源の方が、分野外の情報源より信頼性が高い

  • 特定の観点を超えて信用できることを目指した詳しい情報源は、イデオロギーや党派的な思惑または観点に関して、限られた聴衆に向けたものと比べて信頼性が高い

例えば、査読付きの学術論文は非常に信頼性が高いと見なされるものの典型です。これは上に挙げたような条件をほとんど全て満たしています。これに次いで、権威づけられた専門家による公表物が信頼性が高い情報源として挙げられていますが、これは少なくとも「情報源をはっきりと表明している」「専門分野内」という条件は満たしているでしょう。その次には、政府の公表物が信頼できることも多いと書かれていますが、これは「情報源の明示」「公表まで複数段階を経ている」は満たしていることが多そうですが、場合によっては党派性を持つことがあります。

一方、個人サイトやブログは、信頼性が低いと見なされる代表的な例の1つです。これらは公表までに執筆者1人のみのチェックしか入っていない場合が多く、情報の出所が曖昧にされていることが多く、しばしば匿名で、専門家でない者によって執筆されていることも多いです。ただし、同じようにブログの形式を取っているものでも、大学の学科のブログのような場合は「情報源の明示」「専門分野内」という条件を満たしているでしょうし、書き方によっては「事実と意見を区別している」「参照している情報を明示/引用している」といった条件も満たす場合があるでしょう。

信頼性の低い情報は許容されうるか?

Wikipediaの「検証可能性」のような要件を満たすような情報については、「『日本人の多くが正しいと信じている』と十分な調査を行った解答者が推測できる」と判断しうると思われますが、そうした「検証可能性」の要件を満たさないものが、そのままクイズの題材として不適切かについては、少し議論の余地があると思われます。というのも、クイズの問題文では事実をそのまま示す代わりに、少しぼかした表現で示すことが可能だからです。

Wikipediaで言うところの「信頼できる情報源に公開されていることを検証できるかどうか」を考えたとき、その情報の拠り所になっている情報源にアクセスできるかどうかについてはある程度YES/NOの二分法で考えることができますが、拠り所になっているところの情報源が「信頼できる情報源」かどうかについては、上述のように明確な定義が定まっている訳ではなく、信頼性の高いものから低いものまでグラデーションになっています。したがって、情報を正しいと見なせるかどうか自体も、正しさの確度が高いものから低いものまで幅を持った形になると考えられます。

また、正しさの確度の低い情報があるということは、同じ対象について、1つの確実な情報で説明されるのではなく、複数の相矛盾する情報が、それぞれ(少し低めの)ある程度の確度を持った情報として存在する場合がある、ということを意味します。よく言われる「諸説あり」「異説あり」といったパターンの場合です。

クイズの場では、出題者と解答者の間で正しさに関する推測が共有できれば良いので、正しさの確度そのものよりは、複数説があるかどうかの方が問題になりやすいと思われます。例えば、出題者が邪馬台国は九州説が正しいと考えて問題文に織り込んだ時、解答者が畿内説を正しいと考えて解答すれば、齟齬が生じてうまくクイズが成り立たなくなります。

一方で、Wikipediaの「検証可能性」の観点で正しさの確度が低くても、複数説が挙げられない場合は、出題者と解答者で正しさの推測を共有できる可能性があります。これは、例えば俗語のような例や、信頼性の高い文献資料に残りにくいファンカルチャーなど(霧雨魔理沙がWikipediaから削除される日 ウィキとファンカルチャーとの最悪な相性の記事に書かれているような事例)が該当しうると思います。

こうした事例については、信頼性の低い情報源を多数確認することで十分と見なしたり、場合によっては情報源なしで済ませることも一部許容されるべきかもしれません。実際、著名な競技クイズ大会である「abc/EQIDEN」の作問者向けガイドで、参考文献を提示するのが難しい場合についての言及がされている例があります:

どうしても参考文献が書けない場合は?
日常的な表現を問う問題や計算問題などの場合、参考文献を提示することは難しいことがあります。文献などにその言葉が掲載されているわけではないですし、そもそも文献を提示できない場合もあるからです。そういう場合、参考文献を書いていないからと言って、即不採用となるわけではありません。参考文献がどうしても見つからない場合は、その旨を参考文献欄にお書きください。しかし、以上のことは、出来る限り参考文献を見つける努力をして頂いた上での例外事項です。参考文献がつけられる問題には必ず参考文献をつけるようにお願い致します。
(abc the 15th/EQIDEN 2017 Question Writing Guideより)

なお、これについては、あくまで直接的な情報源を提示できなくてもよい場合がある、というだけで、調査そのものをしなくてもよい、という意味には捉えられないと思います。むしろ、直接的な情報源が見つけられる場合よりもさらに念入りに、十分多数の(やや信頼性の低い)情報源が挙げられること、また異説が考えられないことについて調査をすべきでしょう。

複数の説が挙げられる場合

では、複数説が挙げられる場合にはどう対処するのが良いでしょうか。この場合は、WikipediaのガイドラインでいえばWikipedia:中立的な観点に述べられているような観点が参考になりそうです。ここでは、複数の観点がある情報を「公平に、各観点の比重に応じて、可能な限り編集上の偏向なく」扱うことを述べています。

Wikipediaのガイドラインでは、中立性の水準を満たすために以下のような原則を遵守することを求めています:

  • 意見を事実として記さない

  • 深刻な論争がある主張を事実として記さない

  • 事実を意見として記さない

  • 判断を下さない言葉遣いを好んで選択する

  • 対立する観点との相対的な勢力差を示す

これは、クイズの問題文でも同様の扱いをするのが望ましいと私は思います。実際にも、クイズの問題文ではしばしば「〜と言われている」「〜という説がある」「一説によると〜」といった形の表現が使われ、"必ずしも事実ではない"とか"他の説もある"といった意味合いを示すことがよく行われています。


なお、これは基本的には専門家の間で複数の説が挙げられている場合の話で、専門家と一般人との間で別々の説が信奉されている場合には、少し別の扱いが必要に思います。クイズにおける正しさの基準を「『日本人の多くが正しいと信じている』と十分な調査を行った解答者が推測できるかどうか」と言ったとき、この「十分な調査を行った」という部分は、"専門家がやるような方法で十分理性的に調査を行えば"という意味合いを含んでいるものとして、このような場合には専門家が正しいと主張する内容の方を正しいものとして採用すべきだと思います。

ただし、「専門家には知られているが一般人は知らない」ような情報は、「一般人に知れ渡っている」ような情報より、題材としての面白さ(話題としての言及されやすさ)が下がる可能性があります。こうした背景のもと、敢えて「一般人に知れ渡っている(が専門家は間違いだと考えている)」内容を出題したい場合、その(専門家的に誤った)情報そのものではなく、その情報が一般人に知れ渡っている、ということの方に言及するという手段が取り得ます。

具体的な例として、例えば有名なジョージ・マロリーの例で見てみます。ジョージ・マロリーは、一般には「なぜ山に登るのか?」という質問に「そこに山があるから」と答えたとされる名言で知られています。ですが、実際少し詳しく調べてみると、当時イギリスのエベレスト遠征隊の中心メンバーだったマロリーが、1923年にニューヨーク・タイムズの記事上で「なぜエベレストに登ろうと思ったのか?(Why did you want to climb Mount Everest?)」という質問に「そこにそれがあるから(Because it's there.)」と返しているもので、登山一般について言ったものではないことが分かります。

これは、十分に文字数を取ってよいのであれば、例えば次のような問題文になるでしょう:

1923年にニューヨーク・タイムズ紙のインタビュー記事でエベレスト登山の動機について「そこにそれがあるから」と答え、登山哲学を象徴するものとしてしばしば言及される名言「そこに山があるから」の元となる言葉を残したことで知られる、イギリスの登山家は誰でしょう?

しかし、これは文章が少し長めになっていて、短文を主体としたクイズ大会などには使いづらいと思われます。

ジョージ・マロリーが一般論としての「なぜ山に登るのか?」という問いに「そこに山があるから」と答えた、ということ自体は、十分な調査を行った上では事実と認定しがたいものです。ですがここで、世間一般で「ジョージ・マロリーが一般論としての『なぜ山に登るのか?』という問いに『そこに山があるから』と答えた」と(誤解ながら)知られている、ということについては、事実そうであると言っても問題ないでしょう。なので、例えば次のような構成の文章なら、クイズとして出題しても許容されるのではないかと私は思います:

「なぜ山に登るのか?」という問いに対して「そこに山があるから」と答えたとされる逸話で知られる、イギリスの登山家は誰でしょう?

これは、「『なぜ山に登るのか?』という問いに対して『そこに山があるから』と答えたとされる逸話」の真偽は置いておいて、マロリーがそうした(誤った)"逸話"によって名が知られていること自体は事実と見なされる、という部分に着目した表現になります。この表現は、もっと有り体に言えば

「なぜ山に登るのか?」という問いに対して「そこに山があるから」と答えたとされる誤解に基づいた逸話が流布している、イギリスの登山家は誰でしょう?

とも言えるでしょう。ここまでの書き方をすると、マロリーに対して少し否定的な印象を与える言い回しになるので、実際にこう出題するのはためらわれるところですが、他の問題文とのバランスの上で、こういう文体も許されるような形であれば、これをそのまま出すこともできるかもしれません。

なお、ここでは、この"逸話"が事実として受け取られないように、細心の注意を払って表現が選ばれる必要があります。例えば

「なぜ山に登るのか?」という問いに対して「そこに山があるから」と答えた逸話で知られる、イギリスの登山家は誰でしょう?

のような問題文は、実際にマロリーが「そこに山があるから」と答えたかのような誤解を生みやすいため、問題文としての妥当性が大きく下がると思います。

「なぜ山に登るのか?」という問いに対して「そこに山があるから」と答えたとされる逸話がある、イギリスの登山家は誰でしょう?

のような表現も、その"逸話"が実際にマロリーについての事実として存在するかのように見える可能性があるため、あまり良い問題文ではないと言ってよいと思います。

「なぜ山に登るのか?」という問いに対して「そこに山があるから」と答えたとされる、イギリスの登山家は誰でしょう?

といった表現でも、マロリー自身が実際にそう答えたという認識がある程度の確度を持って認められているかのような印象を与えるので、不適切な表現だと思います。

一般人と専門家の間で正しさの認識が違っているにもかかわらず一般人側の認識に基づいた出題をしようとした場合、このような細かな表現の違いにかなり敏感になって言葉づかいを選ばないと、十分な調査を経た専門家視点で見たときに不適切と見なされる可能性が出てきます。実際のところ、上で許容例として挙げた

「なぜ山に登るのか?」という問いに対して「そこに山があるから」と答えたとされる逸話で知られる、イギリスの登山家は誰でしょう?

という例についても、「〜とされる逸話で知られる」と言われれば言外にその逸話が真だと見なされていることを匂わせているように受け取られる、という批判が生じうるもので、「出題者と解答者が共通した認識を持つ」という目標からすれば、ある程度リスキーな形にはなると思います。大会の趣旨に応じて、このリスクは許容するか、あるいは長文でのより正確な表現をとったり、あるいは出題自体を控えたり、など、取り得るいくつかの選択肢から、許容できるラインを選んでいく必要があるものと思われます。


まとめ

以上、まとめると、クイズにおける「正しさ」についての今の私の認識は以下のようなものです:

  • クイズが成り立つためには、出題者と解答者の間で「正しい」とする内容に共通認識が持たれる必要がある

  • 日本人を対象としたフルオープンの大会なら、それは「日本人の多くが正しいと信じていること」に基準を置くのが良いと考えられる

  • クイズの裏取りは、解答者が十分な調査を行った時に「日本人の多くが正しいと信じている」と推定できるかどうかを確認することが目標となる

  • 当該の情報が信頼できる情報源に公開されていることを検証できた場合は、裏取りとして十分目標が達成されたと考えてよい

  • 信頼性の低い情報源にしか言及がない場合でも、対立する説が特にないような場合は、多数の情報源を集めることと、問題文中で十分ぼかした表現を使うことで、出題が許容されうると思われる

  • 専門家の間で対立する複数の説が存在する場合、それぞれの説の比重に応じて、偏向なく取り扱う必要がある

  • 専門家と一般人との間で異なる説がそれぞれ正しいと信じられている場合、基本的には専門家の認識をより信頼できるものと扱うべきだが、表現を慎重に選べば一般人の間で(誤って)認識されていることそのものに言及することは可能と思われる

ここでは、「正しさ」についてWikipediaのガイドラインなどを参照しつつプラクティカルな部分について考えましたが、実際には、なぜWikipediaのガイドラインで言われているような基準をもって情報を「正しい」と見なしうるのか、といった部分などはもう少し深掘りできるだろうと思います。このあたりについては、哲学で考えられる「真理論」のような内容を交えて、より深く議論がされていくべきかもしれません。

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