クイズ問題の「出題価値」について

クイズの問題を作る時、あるいは他人が作ったクイズの問題に触れるとき、「この題材って何が面白いんだっけ?」ということを考えたことのある人は多いと思います。クイズの題材としての面白さのことをよく「出題価値」などと言いますが、これはかなり曖昧な言葉で、どういうものが価値がありどういうものが価値がないかをきちんと扱うのは困難です。この記事では、私が思う「出題価値」についての考え方を整理してみます。


1. E.D.ハーシュの「文化リテラシー」

「競技クイズの出題範囲を考える」の記事(https://note.com/wattson496/n/n124f49e6bb4c)の中でも触れましたが、『クイズ文化の社会学』の中で、クイズの出題対象についてE.D.ハーシュ, Jr.の「文化リテラシー(カルチュラル・リテラシー)」にあたるものとする説が提唱されているのを指摘しておきます。これは、同書の中でも一つの説にすぎないとして扱われているものですが、私はこの説をかなり気に入っているので、まずはこれの話をします。

E.D.ハーシュ, Jr.はアメリカの教育学者です。もともとは詩学の研究者だったようですが、詩の解釈学から、読解力の方面へ関心を向けるようになり、そこから「文化リテラシー」という概念を提唱するに至って一躍有名となりました。

ハーシュの議論のスタート地点は、人は文章をどうやって読解しているか?というところにあります。読解力を高めるための教育として、文法語法を学んだり、文章の論理構造を読み取るようなところに注力した指導がよく行われますが、ハーシュは実際にはそれだけでは不十分だとしています。そうではなくて、もっと個別具体的な物事についての知識を知っていることが必要不可欠だ、とするのがハーシュの論旨で、この“個別具体的な物事についての知識”のことを「文化リテラシー」と呼んでいます。

例えば、次の文章を読むことを考えてみましょう:

ユリシーズ・S・グラントとロバート・E・リーとが1865年4月9日にヴァージニア州のアポマットックス・コートハウスにある質素な家の客室で対面し、リーの率いる北部ヴァージニア軍の降伏条件を協議したことによって、アメリカという国の生命の偉大な一章が終わり、新しい偉大な一章が始まったのである。二人は南北戦争を事実上終息せしめつつあったのだ。

E.D.ハーシュ『教養が、国をつくる。』中村保男 訳, 第2章「スキーマの発見」より

これはハーシュらが1978年に行った実験で被験者の学生に読ませた散文の1つから、その冒頭を示したものです。ハーシュらは、このような内容の文章を、正規版と悪文体版の2種類用意し、ヴァージニア大学とコミュニティ・カレッジの学生達にそれぞれ読ませて比較しました。その結果、ヴァージニア大学の学生では2つの版で明らかに読解力の差が認められたのに対し、コミュニティ・カレッジの学生ではどちらの版でも同程度の読解力を示していました。

一方、同じ学生に対して「友情」をテーマにした課題文を読ませた場合には、こうした読解力の差異が、ヴァージニア大学だけでなくコミュニティ・カレッジの学生にも見られる、という結果が得られました。こうした研究から、「友情」については両群の学生とも背景知識を持っていたのに対し、「グラントとリー」の文章では、ヴァージニア大学の学生のみが背景知識を持っていたために、読解力の傾向に差異が出たのだ、とハーシュらは分析しています。


ハーシュの理論では、人は文章を理解する際に、具体的な表現よりも意味の方を記憶しようとする、というところにまず着目しています。心理学者のジョージ・ミラーが1956年に「人の短期記憶は7±2個程度の容量しか持っていない」と発表している通り、文章の具体的な表現は記憶するにはサイズが大きすぎると考えられます。なので、文章を理解する際にはそこから意味を抽象化したものを取り上げて、それをより長期に記憶することで、具体的な表現の記憶が保持できなくても文章全体を理解するまで記憶を保持していられる、という仕組みです。

このような仕組みを実行できるためには、短期記憶が保持されているわずかな時間の間に、長期的に覚えるべき意味との対応付けを完了させる必要があります。この過程は、R.C.アンダーソンが提唱する「スキーマ」の概念によって理解されています。

文章の中に「鳥」という言葉があったとき、人はまず鳥の典型的なスキーマとして「空を飛ぶ」「木の枝にとまっている」「美しくさえずる」といったものを最初に想定します。この段階では、例えば鶏とか、孔雀とか、ペンギンのような特徴を持ったものを最初から想像することはしません。そこから、文章を読み進めていくうちに、言及されている文脈内での「鳥」の指すものがより詳細に明らかになっていくので、それに応じてこの鳥のスキーマを修正していく、と考えられます。例えば感謝祭についての話が続いていたら、おそらくその鳥は「七面鳥」のスキーマへと修正されていくでしょう。

この過程が正しく遂行されるためには、各種スキーマについて、それを瞬時に呼び出せるくらいに、事前知識として知っている必要があります。これこそが、ハーシュが提唱している「文化リテラシー」というわけです。


これは、逆に文章を書く側に対するアドバイスとしてしばしば「想定読者を意識しましょう」などと言われることとも符合しているように思います。読者がどの程度の事前知識を持っているかを定めなければ、どこまで噛み砕いて説明すべきかが定まりません。ヴァージニア大学の学生が想定読者ならそのままグラントとリーの話を書いて問題なかったとしても、コミュニティ・カレッジの学生を想定読者としているなら、彼らの背景知識がヴァージニア大学と比べて少ないことを考慮して、より噛み砕いた説明をすべきだ、と言われることでしょう。


この文化リテラシーは、例えば「ヴァージニア大学の学生」とか「コミュニティカレッジの学生」といったような規模から、「英語を話す人」のような規模まで、いろいろな規模のコミュニティ内で考えることができる概念のように思いますが、ハーシュはその中でも特に「アメリカ」という国単位での文化リテラシーを、特に教育学的な見地から重視しました。そして、1987年にはアメリカ人が身につけておくべき文化リテラシーを具体的に示す目的で『The Dictionary of Cultural Literacy (邦題:アメリカ教養辞典)』という辞典を刊行しています。

『The Dictionary of Cultural Literacy』の見出しを見てみると、次のようになっています:

  • 聖書

  • 1550年以前の世界史

  • 1550年以降の世界史

  • アメリカの歴史・植民地時代から南北戦争まで

  • アメリカの歴史・再建期から現在まで

  • 世界の文学、哲学、宗教

  • 英米文学

  • 神話と民話

  • 芸術

  • 文法、語法、文芸用語

  • 世界の地理

  • アメリカの地理

  • 人類学、心理学、社会学

  • 世界の政治

  • アメリカの政治

  • ビジネスと経済学

  • 物理科学と数学

  • 地球科学

  • 生命科学

  • 医療と健康

  • 科学技術

これはアメリカにおける文化リテラシーを示したものなので、日本とアメリカの違いを考慮する必要がありますが、ほとんどそのままクイズの題材一覧としても使えそうな項目の構成になっていることが分かると思います。実際、この『The Dictionary of Cultural Literacy』は、アメリカのクイズボウル団体の1つ「NAQT」のサイトでも、作問のための参考資料の1つとして挙げられています(https://www.naqt.com/resources/references/)。

『クイズ文化の社会学』の中では、『クイズグランプリ』のような知識を競い合うクイズ番組の内容がこうした文化リテラシーの内容とほぼ一致することが指摘されていました。現在のアマチュア競技クイズは、こうした知識を競い合う視聴者参加型クイズ番組が少なくなった時期にアマチュアコミュニティの中で代替物として生まれてきた側面があるので、今でも文化リテラシーがクイズの題材として重要だと考えるのは比較的妥当なところなのではないでしょうか。


2. 特筆性

文化リテラシーは、文章を理解するのに必要な個別具体の背景知識です。したがって、その内容は文章として人が人に伝達しようとする対象になりやすいものほど重要度が高まると考えられます。クイズ問題の良し悪しを語る際に、似たような構成で粗製乱造できるものがしばしば忌避されて、特にその事物に特筆すべき内容があることが明らかになっている場合の方が好まれがちなのは、話のネタとして取り上げられやすいかどうか、というのが背景にあるからだと見なすことができるように思います。単に「小惑星番号7919の小惑星は何でしょう?」という問題では、話題としての面白みに欠けますが、「その番号が1000番目の素数であることから名づけられた、小惑星番号7919の小惑星は何でしょう?」であれば問題から十分話題性が伝わります。

この「文章のネタとして取り上げられやすいかどうか」という基準は、Wikipediaの記事立項の目安として考えられている「特筆性 (notability)」の概念に通ずるところがあると思います。この「特筆性」という概念については、日本語版Wikipediaでは「Wikipedia:独立記事作成の目安」のページ(https://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E8%A8%98%E4%BA%8B%E4%BD%9C%E6%88%90%E3%81%AE%E7%9B%AE%E5%AE%89)で詳述されています。ここの定義によれば、特筆性とは「立項される対象がその対象と無関係な信頼できる情報源において有意に言及されている状態であること」です。

Wikipediaの場合、記事の記述として具体的に出典を明記することを推奨しているため、実際に「有意に言及されている」とまで明確に言い切っていますが、基本的な思想としてはやはり「文章のネタとして取り上げられる」というのと同じ方向性のものを基準として掲げています。


Wikipediaの特筆性の基準では、情報源として「対象と無関係な」「信頼できる」という条件しか課していません。ですが、文化リテラシーの場合、どのコミュニティ範囲での文化を考えるかによって、情報源の範囲に制約が加えられると思います。逆の見方をすれば、Wikipedia日本語版では「日本語を使う人」という最も大きなくくりの中での文化リテラシー(のうちウィクショナリーなど他のウィキプロジェクトの範疇を除いたもの)が立項の対象になっているとも考えられます。

私は「競技クイズの出題範囲を考える」の記事(https://note.com/wattson496/n/n124f49e6bb4c)の中でも書いたとおり、クイズの内容は競技の対象者(レギュレーション)に合わせて決められるべきだと考えているので、それに応じて狭めた範囲内の情報源で、有意に言及されているものを出題価値があるものと見なすのが良いと考えています。

3. 裏取り(事実確認)とは別に、特筆性についての調査をしよう

ここまで述べてきたような内容に基づけば、「出題価値」をある程度方針として客観的に定めることができるようになります。競技としての公平性を保つために出題対象を標準化するなら、題材の面白さを主観的に決めるのではなく、客観的な基準に基づいて決められた方が望ましいと思います。

クイズの作問をする際、問題文に織り込まれる情報が正しいかの確認をする「裏取り」をしなさい、ということはよく言われますが、特筆性についての調査をしなさい、というのは、それに比べてあまり耳にしません。このあたりの客観性の薄さは、クイズが内輪のものだと見なされがちな要因の1つだと私は思います。

文化リテラシーは様々な規模のコミュニティで考え得るものなので、小さなコミュニティ内を考えれば、内輪の範囲で盛り上がれる出題対象を意識的に考えることはできると思います。ですが、現状ではそうして意識して内輪の枠を作っているのではなく、無意識のうちに出題者の主観で枠が作られる形になっているので、レギュレーションで謳っている範囲との乖離が生まれて、内輪感が顕在化してしまうという構造になっているのではないでしょうか。

ある問題の題材が十分な出題価値を持っているかについてしばしば論争になるのも、一部はこうした基準の不明確さによるものだと思います。「私は面白いと思う」「私は面白いとは思えない」という論争ではあまりに水掛け論で不毛ですが、「私はこういう人を対象として問題を作る方針を取っている。だからこの範囲の情報源を調べて、これだけの言及があることを確認した」という風に主張できれば、そうした不毛な争いは少し減らせるのではないかと思います。もちろんこれでも情報源の範囲とか実際に調査した言及の挙げ方とかで論争にはなるでしょうし、実際Wikipediaでもそういう議論がされているのを時々見かけますが、主観のみに基づく水掛け論よりはまだ、建設的な議論ができるだろうと思います。

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