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街頭紙芝居から絵物語へ―山川惣治と永松健夫を軸として―

 戦前に街頭紙芝居の草創期を創った山川惣治と永松健夫は、戦後再び雑誌『冒険活劇文庫』で絵物語ブームをおこします。同時代に同じような運命をたどった二人のライフヒストリーを軸に、街頭紙芝居から絵物語への系譜をたどっていきます。

<街頭紙芝居の草創期に活躍した二人>

 いち早く紙芝居に関係したのは永松武雄で、ちょうど街頭紙芝居の草創期でした。昭和5年(1930)4月、立絵(切り抜いた絵の紙人形)の貸元であった蟻友会が新しく平絵(片面に絵を描いた四角い厚紙)による街頭紙芝居を模索し、画家を募集していたところに参加したのが東京高等工芸学校に入学したばかりの永松武雄(健夫は戦後のペンネーム)でした(註1)。永松によると最初の物語は「お伽の御殿」(作・後藤時蔵)で、続く作品は「怪盗バット」(作・田中次郎)だったといいます(註2) 。これを引き継いで「黄金バット」のストーリーを作ったのが押川春浪ファンだった鈴木一郎でした (註3)。世界中を舞台に、空中、海底、地底などを舞台にして、超科学的空想機械を次々に登場させ、縦横無尽に戦いが繰り広げられる奇想天外な物語は街頭紙芝居ブームをおこします。その後、永松と鈴木らは「話の日本社」を創設し、黄金バットを続けましたが、8年3月、永松は学校を卒業し就職します。加太こうじらが後を引き継ぎますが、黄金バットの人気は下火となり、そこで人気となった街頭紙芝居作品が「少年タイガー」でした。

<紙芝居の裏面に説明文>

 山川は、昭和7年に街頭紙芝居の貸元・そうじ映画社を始めますが、「少年タイガー」(作・画・山川惣治)が人気となります。後に参加した優秀な画家松井光義が始めた説明文を画の裏面に書き込むという手法は革新的だったとされます(註4)。それまでのあらすじを口伝で伝える必要がなくなり、上演者による技術の個人差も少なくなったようです。

<レコード紙芝居>

 街頭紙芝居は手書きで描かれた一点物でしたが、昭和7年から紙芝居の説明をSPレコードに吹き込み、絵と説明文が付録で付くレコード紙芝居が販売されるようになり、8年3月に「黄金バット」もレコード化されました。街頭紙芝居とは違って、同じ作品が一度に多数作られることになりました。さらに昭和8年7月にキリスト教布教のために今井よねが紙芝居刊行会を設立し、印刷紙芝居が製作されるようになると、一つの作品が同時に複数の場所で上演できるようになりました (註5)。

<日中戦争と紙芝居>

 その後、街頭紙芝居は新興貸元の躍進もめざましく、激しい競争により、優秀な作家や画家を輩出する一方、低俗性を指摘されることもありました。昭和12年、日中戦争をきっかけに統制経済が進み、11月に街頭紙芝居の貸元16軒や明治製菓が出資し、大日本画劇株式会社が設立されます(註6) 。
 昭和12年に日本文化協会主催第一回画劇賞選定コンクールに大日本画劇社から山川による「勇犬『軍人号』」を出品、一等賞を獲得、翌年講談社の系列であったキングレコードから販売され、これに目をつけた『少年倶楽部』編集長須藤憲三が目をつけ、山川に仕事を依頼するようになります(註7) 。『少年倶楽部』昭和14年7月号に「誌上紙芝居 宣撫の勇士」が掲載され、同年10月、実話を元に描かれた「絵物語 幻の兄」は紙芝居の絵と解説文を並列させる絵物語の始まりとされています(註8) 。
 昭和13年に創設された日本教育紙芝居協会が中心となって、多くの団体から国策紙芝居が量産されます。昭和10年に紙芝居に戻っていた永松も12年には小学館で挿絵を描くようになり、山川原作でレコード紙芝居「誉れの荒鷲」(15年)「兄のまぼろし」(17年)など戦争物の画を描いたり、18年小学館図案部に入社後 (註9)も、19年に東亜国策画劇株式会社から「大空につづけ」(作・伊藤正美)を刊行。山川も『少年倶楽部』を主に挿絵を描きながら、19年に大日本画劇株式会社から「神兵と母」(作。宮下正美)を刊行しています。
 昭和20年3月の東京の空襲で下町の貸元の多くが被害を受け、4月の空襲では大日本画劇社が全焼し、その様子を永松は見ていたそうです (註10)。永松も山川も自宅が空襲の被害にあい、転居を余儀なくされ、終戦を迎えます。

<街頭紙芝居作品を絵物語に>

 永松は、戦後も21年から小学館の挿絵の仕事を健夫名義で始めていました。22年11月には、元小学館の今井堅が始めた明々社が永松の『黄金バット』を絵物語にして刊行、大ヒットとなります。
 一方、山川は、21年夏頃から加太こうじの元で紙芝居を中心に活動(註11) 、21年以降いろいろな雑誌で少しずつ挿絵も描くようになりました。22年末に小学館内にあった全優社で紙芝居『少年王者』を描き、12月に集英社から絵本『少年王者』として刊行されます (註12)。この出版は当時の小学館社長相賀徹夫の独断で、合資会社として復活させた集英社から初版3万部、最終的には50万部に達し、戦後劇画漫画史上の快挙だったといいます(註13) 。
 23年8月に「黄金バット」でヒットした明々社は、永松ら街頭紙芝居の作家を集め、絵物語雑誌『冒険活劇文庫』(後の『少年画報』)を創刊し、2号からは小松崎茂が参加しました。
 昭和初期に街頭紙芝居ブームを巻き起こした2人は、さらに絵物語ブームのきっかけを作り、その後の劇画やマンガに多大な影響を与えることとなります。

<註>

註1 pp.32-36 加太こうじ『紙芝居昭和史』立風書房、昭和46年(1971)。
註2 p.23 『紙芝居』第3巻、日本紙芝居協会、昭和22年(1947)12月。
註3 p.36 前掲加太こうじ。
註4 p.14 前掲『紙芝居』第3巻。
註5 p.28 『昭和の紙芝居』昭和館、平成24年(2012)。
註6 p.15 『紙芝居』第4巻、日本紙芝居協会、昭和23年(1928)4月。
註7 p82 前掲『昭和の紙芝居』。
註8 p.40 三谷薫・中村圭子編『山川惣治』河出書房新社、平成20年(2008)。
註9 p.80 前掲『昭和の紙芝居』。
註10 pp.183-185 前掲加太こうじ。
註11 pp.199-200 前掲加太こうじ。
註12 pp.22-23 『紙芝居』3巻、日本紙芝居協会、昭和22年12月。
註13 pp.39-40 社史編纂室編『集英社70年の歴史』集英社、平成9年(1997)。

<参考文献>

加太こうじ『紙芝居昭和史』立風書房、昭和46年(1971)。
『紙芝居』第3巻、日本紙芝居協会、昭和22年(1947)12月。
『昭和の紙芝居』昭和館、平成24年(2012)。
『紙芝居』第4巻、日本紙芝居協会、昭和23年(1928)4月。
三谷薫・中村圭子編『山川惣治』河出書房新社、平成20年(2008)。
社史編纂室編『集英社70年の歴史』集英社、平成9年(1997)。

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