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楢木範行年譜7 椎葉紀行 昭和8年8月

まへがき

此の旅行は、主として方言の調査にあつたのであるが、地理の不案内と、悪天候に妨げられて、直接に聞かない言葉やわたくし自身に疑問の言葉もあつたので、それは皆省いた。僅かの滞在ではあつたが、大体の様子が判つたので、先づ今夏の休暇を利用して、他の方面と共に、充分の調査を遂げたいと計画してゐる。因みに、方言の項の○印の語は、日向眞幸方言と共通のものであることを示す。

一、 上葉まで

年の瀬も押し迫つた鹿児島の喧騒を避けて、車中の人となつたのは師走の二十六日。気遣はれた夜来の雨は一時止んだが気節外れの不気味な暖かさに一抹の不安を抱いた。レールを軌る音の敷加はゝるにつれて、日向灘の白い波の穂の見える頃には漸く旅心も募つて行つた沖は暗いし夕暮れはせまるし
富高駅に降り立つた時は、既に日は暮れ果てゝ雨は土砂降りになつてゐた。この町に一夜を明かす積りであつたが、新塚原行の客を運転手が、頻りにサービスするのと、まだ見ぬ山里へ、一時間でも早く行きたいとの希望とは、雨の暗闇の中を走つて了つた。何も見えない。道は上りだ。二時間も走つた頃から発電所がありトンネルがある。お噺の国に行く様な気持。他に客は、男三人、女一人、男は石を砕く話をしてゐる。女は大阪方面で女工をしてゐたが、病気になつて帰る所。二年位前郷里を出たので、新道が出来て、生家の前を自動車が通らぬ事を知らなかつたゝめに、大変困惑してゐる様子だつたが兎に角、人家のない雨の中に行李を下した。今度の救済事業は他にもかう云ふ事を惹き起こしてゐる事だらう。九時半頃新塚原に着いた。新しい家が十軒位立ち並んでゐる。橋も立派なものだ。運転手の案内してくれた、宿屋(下は雑貨を商ってゐる)は村役場吏員の忘年会があるとて、別の橋の袂にある宿を教えて貰つたが、道が暗いので、運転手の親切でヘッドライトの明りを頼りに一町位離れた宿に入つた。
木の香りの新しい二階に上るとすぐに戸を排して、外の面を見透かさうとしたが、分らない。雨の音に混つて、水のせゝらぎの聞こえる所から、谷あひであることだけは見当がつく。女中がランプを持って来た。
旅の第一夜は明けた。山! 山! 深い谷だ。朝食を終らない内に、一昨夜頼んで置いた自動車がせき立てる。昨夜十二里位山に入つて来たが、今日は又後二里を自動車で岩屋戸まで行き。三里を歩かねばならぬ。途中小ヶ倉で乗り替へて岩屋戸についたのは九時頃であつた。岩屋戸の名からして神秘境への関門見たいだ。も一つの道を行つても、神門と云ふ所から歩かねばならなぬ。
下流の和田から、上椎葉までは(十三里位)道路工事で、只今岩屋戸まで出来上つてゐる。岩屋戸から上椎葉まで三里の間は工事最中で、山腹の仮道を歩かねばならぬ。此の道路は住友の道路で椎葉細島港線とか云ふのださうだ。住友が耳川に六ヶ所発電所を設けるのでその代償だと云ふが結局は住友道路である。椎葉村の随所に山を買ひ込んでゐるのを見ても分る。
三里の仮道はとても難儀した。一寸した荷物が苦になつた。下椎葉に着く頃は、空腹で歩けない位であつた。遂に百姓屋へ飛び込んで、粟の飯を御馳走にならなければならなかつた。上椎葉の役場に着いたのが午後二時半であつた。三里の道にしては、はかどらない足だつた。

二、 椎葉村概説

イ、 面積―三十四方里八〇四、東西―十里、南北―十三里。
ロ、 戸数―一、一八八。
ハ、 人口―八、七六五(1戸当り七・四人)
ニ、 風俗・習慣・民情 
大抵夜は九時十時に寝て、朝は四時五時に起きる。先づ起きて唐芋や里芋を食べて、夏は牛馬の草刈に、冬は草負ひ、薪負ひに出たり、ハミキリ(牛馬の飼料である藁や草を小さく切ること)をやる。之が済んだら朝食を取つて山や田畑に夫々労働に行く。十時頃には昼食、午後二時頃には二番飯と云つて食事をし、晩飯まで野良で働く。晩飯後はヨナベ(夜業)をして色々なものを食べて寝る。
 田植稲刈麦蒔等にはカテーリと称し、近隣親族交替に加勢し合ひ、その晩はダリヤメと云つて酒食を饗する。農事一段落の時、サノボリ、クワバラヒと称し、酒肴携帯で一部落老若男女相集つて一日の歓をつくす。
 普通農家の構造は旧式で間口八・九間内外、奥行四間位のものが多く、背面は全部押込、戸棚等で室内は暗い。屋根は大抵萱葺で、二三部落で普請組合が出来てゐて、十三、四年乃至二〇年位に葺替をする。然し村内でも尾前の如きは大部分が小板葺と亜鉛板葺で、遠望では一寸温泉町のやうに見える。他の部落でも稀に亜鉛板、小板葺の家がある。住居の家は小さいものは少く、大体、居間(ウチネー)客間(デー)神仏を祀る間(コザ=隠居部屋でもある)の三つになつてゐる。ウチネーを除いて、デー、コザは冠婚葬祭の儀式がある時以外には容易に開けない。住居は大部分が不潔で殊に■所や便所などは甚しい所がある。
 夏は蚤の発生を防ぐために、畳を上げて板敷に起居する。偶には全部畳のない家がある。そんな家では真萱で編んだウスベリを代用してゐる。
 食物は、稗・粟・玉蜀黍・麦を混用する者多く、漸次開田せられ、耕作も改良せられて、米の収穫も増加せられ、常食に米を用ひる家もある。然し戸数に較べて耕地面積が狭いので自給自足することは出来ない。出稼、駄賃付、山産物売却による収入で、村外より白米其他幾らかの雑穀を買入れてゐる。斯く随分貧窮してゐる者も飲酒を忘れない。偶には春秋二回収穫の椎茸や茶の生産等を当にして焼酎を買入れて飲酒する者もある。無理算段までして、日酒(終日飲酒すること)で飲み暮らしたり、盆や正月に甕一本(一斗五升入)を買ひ入れて盛んに飲んでゐる。全村ではないが、コモカブリと称して甘酒を造つて飲む所もある。
 踊では、小崎の山法師踊とその他に臼太鼓踊がある。夜神楽には椎葉特有のゴヤセキ(囃し)が盛んで老若男女を問はずよく唄ひ、賛辞や諷刺恋情を唄に表現して騒ぎ明かす。
 正月より三月にかけての春祭には、松尾と下福良を除き各部落毎に、肴持ち寄りで日当りよき場所に集り盛に的射をやる。小春の傾く頃、酒の廻るにつれて的射節で賑やかである。
 年末年始は全部旧暦に従ひ、新暦によつては殆んどが只カドメ(略式のお祝)である。餅の贈答をやる。自分の家に久々にかへるをゲンゾと言ふ。
 村外との物資の移出入は全部駄賃付によつてゐる。村人は殆んど徒歩で何処へ出るにも一日を費して上り下り五六里以上の峠を越さねばならぬ。村民はランプを用ひてゐる者もあるがまだ五六割位は、タイマツ、カンテラで辛抱してゐる。
 迷信に迷ふ者が多い。病人でも出来ると、デキガミ(憑き神)と云つてゲンジャを頼んで、呪祈祷をする。余程病気が重らないと医者にかゝらない。今でもまだ犬神を信じて、病気になると、どこの犬神が食ひついたと云つて、ゲンジャを頼んでヒネリをするのである。
 大宇不土野方面では、供応の席上では必ず袴をつけ扇子を持つた、幹事が開会に当り、起立威儀を正して挨拶を結ぶ時誰々殿々々々と上座の知名の士を三四名呼び上げ、「其の他ドノ方さまにも、ヂヂコ(遠慮なく)上つてタマウリメーセ」などと述べる。尚この時来客に対して、庭にゴザ、ムシロを敷いて、一々「クチシメシ(口浸し)と云つて飯椀一杯づつの焼酎を飲ませて座席に通す。その酌を進める者の外、監視役の者が少し上座の廊下などに居て公平にやるか否かを見てゐる。

三、 婚姻習俗梗概

ナイショキキ(二人)―嫁の親と親しい者。改めて仲人が立つ(二人)成立すれば、近い所は、仲人丈。遠い所であつたら婿も親爺も行く。
 嫁の家で親族友人が集まつて、酒盛してゐる所に乗り込む。そして、仲人から嫁と一緒に成るべく多勢で行つて貰ふやうに頼む。
 普通はその日に。遠い所は翌日。何れも暗くなつてから婿の家に行く。必ず行かねばならぬ者は嫁の両親と嫁脇。(嫁脇と云ふのは養子の時丈。その時は嫁脇はない)
 結納は殆んどなく、やる家は十軒位しかない。嫁の方からは袴地一反。婿の方からは、帯、扇子、酒三升。
○ 途中 途中に若者が待ち伏せて、水を打ちかける。それで嫁は相当な用意をして行く。(外套。傘)
○ 婿の家にて。嫁が身繕ひをするのにデーの間が開けてある皆座に着くと仲人が口を切る。
「貴郎方の所望によつて、貰うて来たから、可愛がつて、末永く使つてくれ」と云ふ意味の事を云ふ。
 酒宴が暫くつゞいてから、仲人が三々九度の杯をさせる。それから又飲む。
 仲人が謡を唄はぬ内は、外の歌は唄へぬ。
 十二時一時になると嫁が座に出て来て茶をくむ。所によると、コガレ(飯のコゲ)を配らせる。(居つきがよいやうに)
 親族の者はかへるのが礼式。老人などは泊まることもある。
 三日すると嫁の家に行つて二日位仕事をする。
 婚姻してゐても、戸籍面は私生児が多い。

四、 民謡 稗搗節

田舎なれ共椎葉にやオジヤレ
 野にも山にも花盛り
恋の別の那須大八が
 鶴富見棄てゝ目に涙
椎葉名所の数ある中に
 日本一なる杉もある
稗は搗いても来るこた(には)来るが
 暫し待ちやれ遅ふござる
臼の中にも名所がござる
 杵を揃へて来る名所
ナンボ搗いてもこの稗ムケぬ
 どこの御蔵の下積みか
庭の山椒(大抵の家にある)の木に鳴る鈴かけて
 鈴の鳴る時や出ておじやれ
鈴の鳴る時や何と云ふて出ましよ
 駒に水やると云ふて出ましよ
オドマ(俺達は)イヤバ(イヤだよ)よ此の山奥に
 鳥の鳴く声きくばかり
ナンボ山中三軒屋でも
 住めば都よ我里よ
こゝで別れて又何時逢をか
 明けて三月小マ茶時
それぢや遅かろ待長ふござる
 せめて榎木の目立つ頃
傘を手に持ちどなたもさらば
 長いお世話になりました
泣くな鈴虫声ふるはして
 こゝは道ばた人が知る
泣いて待つより野に出て見やれ
 野には野菊の花盛り
山で伐る木は沢山あれど
 思ひ伐る木は更になし
思ひ焦がれて墨する時は
 石の硯が中くぼる
和様平家の公達流れ
 オドマ追討の那須の末                

旅と伝説. 第6年(8月號)(68)
三元社 [編]
1933-08

※方言など部分的に掲載していないので、原本をご確認下さい。


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