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楢木範行投稿3 柳田国男と楢木家の人々

 私が、柳田国男の書簡との出会ったのは偶然であった。平成七年、『みやざきの一〇〇冊』という企画で、宮崎県出身の民俗学者・楢木範行の著書『日向馬関田の伝承』がその一冊に選ばれ、私が執筆担当となった。編集の都合、楢木の顔写真が必要となり、ご遺族である長男、茂行氏に連絡を取った。写真を複写させていただく用務で、ご自宅を訪問した際に、「こういうのもありますよ」と見せられたのが、柳田をはじめ、大間知篤三、最上孝敬ら、民俗学者たちからの書簡であった。他に折口信夫の講義を記した学生時代のノートや、寄稿した新聞記事の切り抜きなどもあった。初めて見る本物の柳田の書簡に感激しつつ、とりあえず複写をさせていただいた。自宅に帰り、あらためてその内容を読み返すと、柳田と楢木の関係が現実味を持って浮かび上がってきた(『みやざき民俗』五三号参照)。
 楢木範行は、明治三十七年、宮崎県西諸県郡真幸村大字島内(現えびの市)に生まれ、昭和十三年、三三歳一〇か月の若さで亡くなっている。
 大正十一年に國學院大学高等師範部へ入学。鹿児島民俗研究会の機関誌『はやと』の第三号には、楢木の紹介として「お控えなせえ!彼こそ國學院という畑で折口仕込みの薫陶を受けたチャキチャキ。」と記されており、折口の下で民俗学を学んだことが分かる。大学卒業後、大正十五年四月から長野県上伊那農学校で教鞭を執った。この時期については資料が無いため、就職の経緯や人脈などは不明であるが、『日本民俗誌大系』には、「民俗学への関心は、父茂吉から受けついだものであり、さらに國學院時代、柳田国男先生を知ることによって本格的なものになっていったと考えられる。」とあることから、大学時代すでに二人には交流があり、柳田の出身地長野県への就職は、柳田の紹介ではないかと想像される。ちなみに、ちょうど楢木の就職の時期である、大正十五年三月に柳田は長野県飯田市を訪れている。
 昭和三年、鹿児島県立商船学校に赴任すると、楢木の民俗研究は本格化する。『民俗芸術』『旅と伝説』『民俗学』などへ南九州の事例を積極的に報告しつつ、地域民俗学の方法も模索していた。楢木家に残された書簡は、昭和十年二月以降のものであるが、大学卒業後から毎夏上京していたらしく、中央との繋がりはそのころから保たれていたとみられる。
 十年七月に行われた柳田の還暦記念講演会にも出席した楢木は、翌十一年十月に野間吉夫らと鹿児島民俗研究会を発足させ、その年の五月と十一月には九州歴訪中の柳田夫妻を妻ミチとともに迎えている。そして翌十二年四月に創刊した鹿児島民俗研究会の会誌『はやと』に、柳田は「鹿児島県と民俗研究」という一文を寄せており、二人の交流はますます盛んになった。
 十二年九月、楢木の父茂吉が心臓麻痺で死去する。明治二年生まれの茂吉のことを柳田は『日向馬関田の伝承』の序文において特別な伝承者として紹介している。

 今この書物の世に出て行くのを見るにつけて、何か寂しい心残りを感ぜずには居られぬのである。故人はやはり自分などが想像してゐた如く、一種新しい型に属する伝承者であった。


 柳田から楢木への書簡にも、父茂吉のことが頻繁に触れられている。十二年九月二十七日付の書簡にも「小生も一度御目にかゝり置かざりしことを残念に思ひ候」と記されているとおり、五月の来訪の際には、鹿児島県立図書館で行われた柳田の講演会に茂吉が参加していたにもかかわらず、対面を果たされなかった。
 茂吉の死から三か月後、十二年十二月に鹿児島民俗研究会から『日向馬関田の伝承』が刊行される。この著書は後に、『日本民俗誌集成』(角川書店)や「柳田國男の本棚」シリーズ(大空社)にも収められることになる。研究者が、自身の郷土の民俗を、それも自らの父を対象として行った聞き書きである点と、自らの実感に基づく詳細な民俗誌であるという点で、この書物は柳田にとって地域における民俗誌の理想に近いものであったのではないか。そういう点からも柳田は、茂吉の伝承者として資質を評価するのみならず、楢木によるこの著書の刊行にただならぬ期待を寄せていたと考えられる。
 ところが『日向馬関田の伝承』の序文を確約した十二年十一月十六日付の書簡を最後に柳田と楢木の交流は終わりをつげる。翌十三年四月一日未明、二月に生まれたばかりの長男茂行に会うため、飯野村前田にある妻の実家を訪れていた楢木は、脳溢血によって急逝したのである。
 楢木急死の一報を受けた柳田の狼狽ぶりは、四月三日に妻ミチへ宛てた手紙からうかがえる。

 突然の御報にて今なほ真偽をうたがふばかりに候、どふいう御様子にや更ニ野間君などよりの通信も有之べく哉とまちをり候も、只此まゝにても居られず、一応御見まひ申上候、最終ニ御目にかゝってから一年になり候も近頃も御通信をたまはり殆どこの様な出来ごとがあらうとは夢にも考へられず茫然といたし候、さりともまちがひとも考へられず如何に、皆様御動顛且ツ御悲傷被成候ことかと深く御察し申上候、野田氏の御名も知らず電報もさし上げかね、もどかしく候へ共、書中御様子うかかひ申上候。


 四月二日午後、楢木の郷里、真幸村島内において葬儀が執り行われた。葬儀も終了し、やや落ち着きを取り戻しつつあった四月十四日、柳田は再び妻ミチへ書簡を送っている。

 あなたも気をつけて病気にならぬやうにして下さい。御葉書を見て漸う御事情がわかりました。此方でさへあまり意外で信じられぬやうですからあなたの御驚きはさぞと存します。しかし追々と日数がたち御悲しみも御淋しさも加ハるばかりと存じます。まだ小さくて孤児になった御子のことを考へると我々共さへ胸が痛みます。今はまだ是からの御計画も立ちますまいが、どうか出来るだけその御子の幸福なやうにして上げたいとおもひます。私はもう何の役にも立ちませんが東京には大間知君はしめ旧友も多ひこと故何なりとも御相談があったら御遠慮なく御話し下さい。


 この言葉から一八年の後、妻ミチは息子の進学について実際に柳田に相談している。長男茂行は、父の学んだ國學院大学への進学を希望していた。しかし、これに対して柳田は、上京して苦学することは本人のために決して良いことではないと考え、一貫して地元国公立大学への進学をすすめ、鹿児島の北見俊夫や宮崎の田中熊雄らを紹介している。
 茂行が浪人を決めた後も、四月十九日付で、早速柳田は励ましの手紙を送り、大阪での予備校生活に際しても、八月と翌年一月には、進学の相談に対して熱心なアドバイスをしたり、澤田四郎作を紹介したりして、茂行の国立大学合格を見届けている。
 偶然に出会った書簡を通して、地方の一民俗研究者・楢木範行と柳田国男の交流の軌跡をたどってみると、それは単なる資料の提供者と分析者というような、よく言われる固定した関係としてのみで語ることのできない繋がりがあったことに気づかされる。そこには、民俗学が全国的に組織化される以前の、地方研究者の理想的な自立の形が垣間見られる。

『柳田國男全集 第32巻 月報30』筑摩書房、平成16年(2004)

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