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映画について、あるいは、〈映画的なるもの〉の至福について

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映画が存在しなければ生きてゆくことのできない、〈映画の奴隷〉であるわたしの映画への愛の告白。映画が与えてくれるその至福の時間があれば、他に何もいらない。
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#映画

『オッペンハイマー/OPPENHEIMER』は〈映画〉ではない。///、、あるいは、〈饗宴〉、…

2024/05/17/19:03 //2024の春の記憶//..否定と肯定の『オッペンハイマー/OPPENHEIMER』//その…

燃焼する垂直の言葉/音楽。螺旋形の階梯を、生成する白い光の言葉、あるいは、四方田…

/2023/8/24/19:17/ /書かれてはいけないこと、書いてはいけないこと/燃焼する螺旋形の階梯と…

深呼吸のための余白に。//遠い向こう側の場所に辿り着く準備として。///8つの名前の人…

/2023/6/21/19:02/ /8つの名前/ジャン=リュック・ゴダール、蓮實重彦、アンリ・マティス、安…

長い夜を生き延びるために、映画「ドライブ・マイ・カー」

並べられた幾つかの偶然と必然によって、生き残った者と死者に人は選り分けられてしまう。人と…

それでも、映画は美しい 映画「恋人たち」

現実が何かとかどうとか言うことが愚劣なこととしか思えないほど、本当の実際の現実は苛烈で熾…

007 その肉体の官能性 映画「ノー・タイム・ツゥ・ダイ」最後のダニエル・007・クレ…

No1:目を閉じ、死んだふりをしてじっと我慢していると、ようやく映画の至福の時間が訪れる。 …

決定的に誤った映画「竜とそばかすの姫」、映画は現実を救済することが出来 るのか? 映画という想像力の崩壊

細田守監督の最新作「竜とそばかすの姫」を観た。きらびやかで壮大な映像と音楽、現代そのものをモチーフにしたような仮想現実と現実の困難の物語。だが、しかし、この映画は決定的に間違っている。この映画は映画という想像力の放棄であり、フィクションが本質的に間違った形で使用された、想像力の自滅的な崩壊を示したものである。 正確に、「この映画は決定的に間違っている」ということ語りたいと思う。 映画という想像力についての原理的な話。映画が想像力であるとするならば、「竜とそばかすの姫」を映画

映画「クライ・マッチョ」映画に愛されし者の痛ましく美しき映画への愛の 歌/映画の子…

1:映画、その愛を巡る物語、一方的で残忍なまでの冷淡さ、あるいは、映画の奴隷の刻印どれほ…

DUNE/デューン・五目まぜご飯的映像スペクタクル絵巻物映画「DUNE/デューン 砂の惑星…

No1:〈季節の旬の具材山盛りの、あまから五目まぜご飯的絵巻物スペクタクル映画〉、「DUNE/デ…

〈ポール・オースター(Paul Auster)×柴田元幸×タダジュン〉によるクリスマス・ス…

〈ポール・オースター(Paul Auster)×柴田元幸×タダジュン〉が生み出した、小さな、でも、…

非凡にも平凡にも普通にもなれないマジョリティにもマイノリティにもな れないはみだ…

非凡になれなかった。特別になれなかった。何者にもなれなかった。記録と記憶に残る者になれな…