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映画について、あるいは、〈映画的なるもの〉の至福について

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映画が存在しなければ生きてゆくことのできない、〈映画の奴隷〉であるわたしの映画への愛の告白。映画が与えてくれるその至福の時間があれば、他に何もいらない。
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『オッペンハイマー/OPPENHEIMER』は〈映画〉ではない。///、、あるいは、〈饗宴〉、…

2024/05/17/19:03 //2024の春の記憶//..否定と肯定の『オッペンハイマー/OPPENHEIMER』//その…

21世紀の言葉のルネサンス/Renaissance生の形式としての、色彩としての言葉 /.失われ…

/2024/02/11/18:17//生の断片を保存する魔術として、そこに、それが//招喚される、〈そこにあ…

〈受肉する光/ひかり/抽象の向こう側の具象〉デイヴィッド・ホックニー/David Hockney…

/2023/10/30/19:27//ありえないことがありえること// デイヴィッド・ホックニー/David Hockne…

燃焼する垂直の言葉/音楽。螺旋形の階梯を、生成する白い光の言葉、あるいは、四方田…

/2023/8/24/19:17/ /書かれてはいけないこと、書いてはいけないこと/燃焼する螺旋形の階梯と…

深呼吸のための余白に。//遠い向こう側の場所に辿り着く準備として。///8つの名前の人…

/2023/6/21/19:02/ /8つの名前/ジャン=リュック・ゴダール、蓮實重彦、アンリ・マティス、安…

「われら闇より天を見る(We Begin at the End)」/13歳/聖なる無法者にして守護者の…

涙よ、邪魔をするな、涙よ、止まれ、涙よ、わたしが小説を前に進めることをさまたげないでおく…

長い夜を生き延びるために、映画「ドライブ・マイ・カー」

並べられた幾つかの偶然と必然によって、生き残った者と死者に人は選り分けられてしまう。人と人の間に、分けるための線が引かれる。一本の線が。 それが宿命と呼ばれるものなのかどうなのかはわからない。宿命という言葉以外に、その事柄に相応しい呼び名が存在しているのかもしれない。しかし、それをどのように呼ぶことにするのか思い悩むことも、あるいは、そうした呼び名を用いることを忌み嫌い避けようとすることも、殆ど意味の無い事柄にしかすぎない。 なぜなら、それが宿命であろうが、なかろうが、人

それでも、映画は美しい 映画「恋人たち」

現実が何かとかどうとか言うことが愚劣なこととしか思えないほど、本当の実際の現実は苛烈で熾…

007 その肉体の官能性 映画「ノー・タイム・ツゥ・ダイ」最後のダニエル・007・クレ…

No1:目を閉じ、死んだふりをしてじっと我慢していると、ようやく映画の至福の時間が訪れる。 …

決定的に誤った映画「竜とそばかすの姫」、映画は現実を救済することが出来 るのか?…

細田守監督の最新作「竜とそばかすの姫」を観た。きらびやかで壮大な映像と音楽、現代そのもの…

映画「クライ・マッチョ」映画に愛されし者の痛ましく美しき映画への愛の 歌/映画の子…

1:映画、その愛を巡る物語、一方的で残忍なまでの冷淡さ、あるいは、映画の奴隷の刻印どれほ…

DUNE/デューン・五目まぜご飯的映像スペクタクル絵巻物映画「DUNE/デューン 砂の惑星…

No1:〈季節の旬の具材山盛りの、あまから五目まぜご飯的絵巻物スペクタクル映画〉、「DUNE/デ…

〈ポール・オースター(Paul Auster)×柴田元幸×タダジュン〉によるクリスマス・ス…

〈ポール・オースター(Paul Auster)×柴田元幸×タダジュン〉が生み出した、小さな、でも、…

非凡にも平凡にも普通にもなれないマジョリティにもマイノリティにもな れないはみだした者たちへ贈られるラブレター

非凡になれなかった。特別になれなかった。何者にもなれなかった。記録と記憶に残る者になれなかった。誰もが知っている人になれなかった。知る人ぞ知る人にもなれなかった。幾人の人が知っている人にさえもなれなかった。わたし以外わたしのほんとうのことは誰も知らない。友達が知っているわたしはわたしのぬいぐるみ。わたしが知っている友達は友達のぬいぐるみ。わたしがいてもいなくてもわたしはわたしでさえない。本当のわたし、特別なわたし、非凡なわたし、唯一のわたし。わたしはわたしひとりしかいないので