脳内に快楽物質が出ることをどうコントロールするかと言う「アメリカン・ポップ」の本質。その一部としてのマーケティングということ。

 さて、今日はちょいと「しゃぶ漬け」マーケティングから、脳内快楽物質の出る構造、ということから「アメリカン・ポップ」の本質について、考えていきます。


あの失言、「生娘」という言葉と「しゃぶ漬け」と言う言葉の組み合わせだったのです。でね。


 P&Gという、アメリカ発のグローバル企業の文化から、あの発言は出たものなのか、それとは関係ない、あの役員固有のものなのか、それとも若い外資出身のあの役員にも日本の古い体質があったということなのか。考えていきますね。


 事件直後のAbemaニュースで、パックン(ハーウァード卒のインテリ・タレント)が面白いことを言っていて、 

「これアメリカでは全く叩かれないと思うのですよ。「生娘」は、品がないし、女性の性行為がいつあってどういう状況であってなんてほっとけよ、と思うんですけど、アメリカだと、『このポテチはクラック・コカインみたいだ』って普通に言うんですよ。だからこの「しゃぶ漬け」っていうこういう表現、依存で苦しんでいる人には失礼かもしれないけれど、アメリカ人の感覚で言うと、全然、アリなんですよ。」


 つまり「生娘」部分はアメリカでも品がないが「しゃぶ漬け」はアメリカでは問題なし、と言っているわけ。


 一昨日以来、僕の投稿にいろんな人がいろんなコメントをくれたんだけれど、ある方が

「策士、策に溺れる、か。P&G出身のプロ経営者。
彼らはニューロマーケティングを知っている。
人間の本能、直感、どうすればドーパミン分泌するのか。これを巧みに操ることを。
言語化で、視覚化で、誘導する数多の手法を持ち、
社内外での浸透のためのスローガンやテーマの創出も、できる。
それが、人の琴線に触れるか、逆鱗に触れるかの違いは何か。
聞き手が誰かによって異なると僕は思った。P&Gはニューロマーケティング」

 また、P&Gは「P&Gマフィア」などと言われてえらい迷惑なのではというある方のコメントに

「P&Gに関しては事実だから。「欲望を生み出す社会」マーケティングの教科書だけど、その最初にどうやって市場がない中で商品を作り売上を作ったのか。業務の流れはまさにマフィアで。この会社の問題はアメリカでは研究対象になってるから全く気にしてないと思うよ。」

と答えている方がいる。

 ほんとにそういうことなのですね。「しゃぶ漬け」という言葉のセンスは日本の品のない反社勢力用語ですが、言っている内容は、この「どうやったら人間の脳内に快楽物質が出るか」マーケティング。これはP&Gだけでない、「アメリカン・ポップ・カルチャー」の本質なんですね。ビジネスも、エンターテイメントも。


 誤解してはいけないのが、念のため言っておきますが「食品に、いけない快楽物質を入れている」ということではないですからね。「亀田のハッピーターンの粉」は、ただの調味料です。いけない快楽物質を食品に入れる企業なんてありません。


 パックンが「ポテチ」と言っているのが、大正解で、快楽物質を直接、入れているわけではなく、どうやったら大量に快楽物質が脳内分泌するかを商品化するのがマーケティングなわけです。「油とジャガイモ」の組み合わせというのは、脳内に大量に快楽物質を分泌させる特別な組み合わせだという研究があるんですね。あれ、「油」も「じゃがいも」もただの食品ですが、組み合わせて「ポテチ」とか「フライドポテト」とか「じゃがバター」とかになると、脳の中に、快楽物質が、異常にたくさん出て「ポテチ漬け」になるわけです。「牛脂とじゃがいも」の組み合わせの肉じゃがで、「結婚を決意」、ころっと落ちてしまうのも、もしかすると「じゃがいもと油」の力のせいかもしれません。


 食べ物だけじゃなく、村上龍は、どの本だったか思い出せないのだけれど、アメリカン・ポップという文化(映画も音楽も食べ物もディズニーランドも)の本質は、人間と言う生き物が「こういう刺激を入力をすると、避けようもなく誰であっても脳内快楽物質が出てしまう」という方法を発見抽出して、それを大量にばらまくということにある、ということをかつて80年代に書いていた。


 ディズニーランドのエレクトリカルパレードが、遠くからやってきて、あのビートに包まれて、あの光の渦を目にすると、人間と言うものは脳内快楽物質が出てしまうモノなんですね。よほどの変人でない限り、そういう風に人間の脳とカラダがそういう仕組みになってしまっている。

 僕は大学時代に三島由紀夫研究をしていたのですが、卒論が『美しい星』というUFOを見ちゃう家族の話で。三島由紀夫の小説にはUFOだったり龍だったり、究極の美、日常を超えた何かを見ちゃう、というシーンが、いろんな小説でいろいろ出てくるんですけれど、これ、空間体験として共通性があるんですね。

 神社の境内に上っていくことを想像してくださいね。両脇は高い樹木で覆われた、急な石段を登っていく。長い石段、閉ざされた視界。音も、両脇の木立で遮られて森閑としている。自分の激しくなった息遣いと鼓動しか頭の中に響かない。 石段が果てて、ぱっと境内の広い視界が広がる。空も開けている。狛犬から本殿まで、すべてがシンメトリカル。
 こういう空間の構成と、「石段を上る」という身体体験を強制されると、脳内に、何か、出ちゃうんですね。快楽物質が。眩暈がするような気がして、何か、神聖なものが、そこにいるような特別な気分になる。


 登山をしていて、最後の急坂を登りきって、山頂に出ると、「ぱーーー」って疲れが全部吹っ飛んで、バカみたいに「やっほー」って叫びたくなるのも一緒。
 急坂を上る苦痛に対する脳内物質がそもそも分泌されている状態で、身体苦痛が終わり、視覚的に開放された空間にでるという体験が重なると、そうなるわけです。


 三島由紀夫の小説の中で「空飛ぶ円盤」や「龍」や「究極の美」や「生まれ変わりの奇跡」を目撃するという体験を登場人物がするとき、その身体体験×空間体験に共通性がある、ということを、まあ卒論では書こうとしたわけです。あんまりうまくいかったけれど。これ、日本の伝統的な神社という空間というのは、ものすごくよく出来た「脳内快楽物質を高確率で出させる仕組み」なわけです。


 対して、アメリカン・ポップ・カルチャーというのは、そういう「脳内物質がドバーっとでる」体験を、いかに高確率で、誰にでも出せるようにするか。食べ物でも映画でも遊園地でも音楽でも、そういうことをビッグビジネスにする、方法論として反復再生可能にすることなんですね。


 グラミー賞の授賞式でのBTSのパフォーマンスを見ると、あれ、なんだか、脳内快楽物質が出ちゃうんだと思う。あの「Butter」っていう曲の、サビの、あの群舞振り付けには、世界中の人共通に「脳内物質ドバー」にする、アメリカンポップとしての完成度の高さがある。だから、アメリカでスーパースターになったんだと思うのだよな。僕、何度も何度も中毒になったみたいに繰り返してみてしまうのだよな。

 今回の問題を「生娘しゃぶ漬け」と言う、コトバの下品さの問題、というレベルで批判するのか、それとも、アメリカンポップカルチャーと、その一部としての、科学的マーケティング全体への気づきのきっかけ(生活からそれらを全部排除することはできないけれど、そういうものに囲まれて、僕らは生きているのだ、と言うことに気付くきっかけにできるか)。

 せっかく何かを考えるきっかけをもらったわけだから、そこまで深く、つっこんで考えるのも悪くない、と思うのでありました。おしまい。

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