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どうも、僕は反田恭平さんのピアノだけが、好きなようだ。クラシックピアノ全体ではなく。なぜなのか、どこが例外的天才なのかを、過去に分析した、それぞれのジャンルでの例外的天才、玉置浩二さんと西村ケントくん考察を参照しつつ考えてみた。

 昨夜もショパンコンクールのファイナル二日目を全部視聴したのだが。ふむ、初日に反田恭平さんの演奏を聴いたときのような感動は起きなかったのである。

 どうも、やはり、私は、クラシック音楽は全般的には好きではなく、クラシックのピアノが好きなわけでもなく、ショパンが好きなわけでもなく、

 この、反田恭平さんと言う人の弾くショパンだけが、反田さんのピアノだけが、好きなのだということが、わかった。

 そういえば、アコースティックソロギターでも、僕は西村ケントくんだけが好きなわけで、(小さい頃から好きだったバートヤンシュとジョン・レンバーンを除けば)、そのカテゴリーが好きわけではなく、

 私の愛するプリンス、ジェイコブ・コーリア―、玉置浩二、藤井風、つまりは、それぞれの人の活躍するジャンル全体が好きということは特になく、この人たちだけ、特別な、例外的な天才のことが好きなだけだったのである。

 この、反田恭平さんと言う人は、明らかに、例外的な天才だと思う。ショパンコンクールの一次予選二次予選三次予選と全部見て聞いて繰り返し4K画質音質配信を65型大画面で観ながらその繊細な音色を聴いている。

 一緒に三次予選まで行った(二人は親友だという)角野隼斗さんの三次予選演奏も聴いてみた。開成中高から東大理一工学部大学院、しかもユーチューバー、それらと世界的ピアニストを並行しているという経歴の特異さから言えば、この人も天才なのかな、いろんな意味で。とは思うが、ピアノの演奏自体からは、僕には反田さんの演奏ほどは伝わってくるものはなかった。いやむしろ、この角野さんの演奏と比較すると、反田さんの特別な能力、特質がはっきりわかった。何が、どこが、僕の心を捉えて離さないかが、分かった。

 玉置浩二さんの凄さに気がついたとき、西村ケントくんの凄さに興奮したとき、それぞれ、僕は興奮して、超・長文のnoteやブログを書いているのだが、その特質のいくつか、玉置浩二さんのボーカル、西村ケントくんのギターの天才性と、反田さんのピアノの天才性には、多く重なる部分がある。

 玉置さんの天才性について、僕は2014年、こう書いている。「何が違うって、声の厚みのコントロール、呼気を「音にする、しないの配分、体のどこを振動共鳴されて声にするのバリエーションの多さ」の自由自在度が違うのです。声を張ったときの響きは、一流の歌手はそれぞれ個性があり、とても美しいですが、それ以外の声の出し方の種類と、「低い音」「小さい音」のときの音色や響きのバリエーションと安定度に、歌手の実力が出ます。」
 西村ケントくんについてこう書いている。「音が、音質が、ものすごくクリア。ギターというのは、難易度が上がるほど、音をクリアに出すことが難しくなる。音質は、当然、左手を抑える強さの正確さと、右手で弦をはじくタッチコントロールの繊細かつバリエーション豊かさに支えられているわけで、こんなにきれいで多彩でクリーンでクリアな音を出すギタリストは、歴史上、いなかったんですね。本当に。」

 そう、どうも、僕は弱音を出すときのコントロールと、音色の美しさということに、すごく惹かれるタイプの聴き手なんですね。こうしてみると。そして、反田さんのピアノは、弱い音を出すときのコントロールの繊細さと美しさが、他の人と全然違う。

 ピアノっていうのは弦を叩く楽器だから、弱く叩こうとすると、なんというか、ハンマーの速度が低くなると、鍵盤をどう操作しても、出音のタイミングコントロールが強い音のときよりはるかに難しくなると思うわけですね。反田さんの手元をずっと見ていると、この人ほど、鍵盤の上で指が前後する、撫でるように前後する人はいない。あと、鍵盤の深さ、手前か奥か、どこを弾くかを全部、いちいち正確に決めて弾いている人はいない。全部、どれだけ弱い音を正確なタイミングで音を出すかのための技術だと思うんですよね。この鍵盤を前後に使うということに注目して、他のピアニストと演奏動画を比較してみると面白いと思います。
 
 でかい音を出すところ、速いパッセージを見せ場聞かせどころと気合を入れる人は多いけれど、反田さんほど、小さい音弱い音の美しさを引き出せる人はいない。そこが本当に美しいから、ダイナミックレンジがとんでもなく大きくなる。これ、玉置さんのボーカルも同じで、実は今、第二予選を聞きながら書いているのだけれど、ミキサーさんがその特性についていけなくて、反田さんのピアニシモに合わせて音量調整した直後にフォルテシモが来ると、うわってあわててボリュームを下げて、なんか調整ミスしているところが何か所もあるんですよね。それくらい、弱音を美しく弾くのが上手い。

 で、その特性にはもうひとつ、「からだの特性」「からだの使い方」というのがあるなあ、とこれは角野さんと比較して気づいた点なんだけれど。というか武道とかの「身体操作」論マニアの私の独自視点かもしれないのですが、ちょっと書いていきます。

 反田さん、ちょっとふくよかで、(指先まで、ちょっと柔らかそう)、からだも上半身から力が抜けていて肩が自由に動く状態でピアノを弾いています。姿勢がいいという印象はなく、背中は丸まっているし、肩は前肩になっていますが、とにかくやわらかく体が使えているんですね。肘関節も手首も柔らかいし、指の関節も、どこにも力が入っていない。
 対する角野さんは、姿勢がいいのだけれど、上半身、肩甲骨もろっ骨も、胸部全体が一枚板のように固まっています。これが肘から手首、指まで、緊張した状態を創り出しています。すこしニュアンスをつけようとすると、やたらと手がピョンピョンと跳ねてしまいますし、すぐに腰が椅子から跳ね上がるのは、上半身の硬さのままニュアンスをつけようとすると、全身、下半身、腰までつかわないといけなくなるからです。「全身を使って表現」していると言えばよく聞こえますか、上半身が柔らかく使えていないために、全身を動かさなければいけなくなっているのだと思います。それだけ肘も肩も胸も硬いのに、よくぞここまで上手に弾いている、と言う意味では、すごいといえは凄いのですが。しかし、やはりその身体操作の特徴いうのは、反田氏とものすごく対照的です。「強く硬い」という印象は否めないと思うのですよね。お時間ある方は見てみてください。難曲を弾きこなそうとすると、ものすごく速いフレーズや、ものすごく強い音も出さなければいけない。それに対して「緊張と集中」であたる、という幼い頃からの対処法が、角野氏のピアノを弾く姿勢を見ていると感じられます。集中して受験勉強する、集中してパソコンキーボードに向かう東大生の姿、その背中、というのを、なんとなく角野氏のピアノを弾く姿から連想してしまうのです。

 それに対して、速いパッセージ、強いフレーズのときこそ、より「脱力」であたる武道的身体操作、明らかに反田氏は武道の達人的「脱力系」の極意を会得している感があります。空手でも柔道でも、「脱力して体を重力に任せて落ちる」というときに、もっとも速く動ける、強い力が出せる、そういう身体操作が反田氏のピアノを弾く姿にはあります。からだをやわらかく使える系の天才肌柔道家のようだなあ、と反田さんのピアノを弾く姿を見ていると思います。

 もうひとつ、玉置さんと西村ケントくん、この両者の共通点は、音楽の構造全体を、瞬間的に捉える能力が、それぞれ際立って高いという特徴があります。玉置さんがいろいろなアーティストと共演したときに見せる、自由自在なハモリのつけ方、あれは、その旋律や伴奏の動きに対して、それぞれの瞬間に最も美しいハモリを嵌める「和声の、どれを当てると、今まで聞いたことのない、変化のついた、しかも美しいハモリになるか」を瞬間的に見極める力が高い。西村ケントくんは、オリジナル楽曲の編曲の、最も特徴的で美しい和声やリズムを、ギター一本の上に再現する能力が、比類なく高い。アコースティックギターの世界では、空前絶後と言っていい。

 反田さんの演奏だけが、他の演奏者と、全く同じ曲なのに、全く新しいものに聞こえるのは、多くのYouTubeコメントで世界の音楽ファンが指摘しているように、和声の内声(ベース音でも最高音でもないも中間の音)を際立たせたり、左手の側に、主旋律と対応するメロディーを発見してそれを際立たたりという、そういう「楽譜から発見し」「それを、どの指・音は弱く弾き、どの指の音を強調して聞かせるか」をひとつひとつ繊細にコントロールする技術があるから、なんですね。

 「弱音を美しく弾く技術」「そのような最弱音から最強音までを、リラックスした柔らかい身体操作で引き出せる」「音楽の立体的構成を瞬時に読み取り、今までにない形でその美しさを響かせる、発見し、演奏する」この三点には、玉置さん、西村ケントくんと、反田恭平さんのピアノに共通する「天才にしかできない」凄さがあるなあ、と思った。例外的天才、というのは、そういうことなんですね


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