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カズオ・イシグロに最適の年齢  ②『浮世の画家』から『日の名残り』へ

※昨日の予告では、『浮世の画家』だけ取り上げる予定だったのだけれど、ここから一気に『日の名残り』まで論じてしまいます。

『浮世の画家』

Amazon内容紹介引用  「戦時中、日本精神を鼓舞する作風で名をなした画家の小野。多くの弟子に囲まれ、大いに尊敬を集める地位にあったが、終戦を迎えたとたん周囲の目は冷たくなった。弟子や義理の息子からはそしりを受け、末娘の縁談は進まない。小野は引退し、屋敷に籠りがちに。自分の画業のせいなのか…。老画家は過去を回想しながら、自らが貫いてきた信念と新しい価値観のはざまに揺れる。」

 長編第二作、『浮世の画家』は、『遠い山なみの光』で見出した、「日本において、戦中・戦争に責任を持つ世代の、戦後における後悔、葛藤」というテーマを、「画家」=芸術創作者として「主人公設定」する、という、後のイシグロ作品で何度も繰り返される要素を加えて、もう一度描いてみたものである。

 たいていの作家で、はじめに成功した長編小説の次作、二作目というのは、前作の成功を引き継いだ、わりと地味というか、予想通りの小説になることが多い。そして、三作目で大きく飛躍する。村上龍なら『限りなく透明に近いブルー』→『海の向こうで戦争が始まる』→『コインロッカー・ベイビーズ』とか。村上春樹なら『風の歌を聴け』→『1973年のピンボール』→『羊をめぐる冒険』。三作目の重量感に対して、二作目は、やや印象が薄いのは否めない。

 『浮世の画家』は、『遠い山なみの光』から、現代のイギリス(つまり現時点の作者自身に近い視点)からの回想、という複雑な要素を除外している。

 戦争直後の日本、長崎という場所に限定し、1948年10月から1950年6月まで、各章のタイトルが日付となっている。それぞれを「記述の現在」としての、そこから遡った過去の回想である。

 その代わりに、主人公を老画家とすることで、芸術家の創作活動(と政治の関係)という、後の作品でも展開されるサブテーマが持ち込まれる。

 小津映画を思わせる、老人と、娘二人との会話の要素も引き継がれる。ちなみに、この中にイシグロ自身を探すとするならば、祖父の家で、自由にふるまう孫の一郎だろう。作中七歳から八歳、(であるならば戦争中に生まれたことになるが。前作同様、イシグロの実際よりも15年ほど時代を遡っているのである。)

 芸術論、芸術創作論と戦争責任、と変奏されてはいるものの、底流に流れるテーマは、戦中に社会の指導的立場にあった者の責任と、それを戦後において、どのように忘却したりあいまいにしたりしているか、という問題である。
 長崎、戦中戦後の日本という、第一作で奏功した舞台に、「日本画家と創作の問題」という新しい色を加えながら、第一作のテーマは色濃く引き継いでいている。「戦中に社会の指導的立場にあったものの戦争への責任を、彼らが戦後どう引き受け、あるいは忘却し、あいまいにしながら生きてきたか。」という問題なのである。

 前作にあった「イギリスからの回想」や「子供を自殺で失う」という、深刻な、愛情面での取り返しのつかなさの軸は、この小説では見出しにくい。主人公老画家の、政治と芸術の関係における人生の取り返しのつかなさに重心が行ったまま、この小説は終わる。その意味では、『遠い山なみの光』に盛り込まれた、たくさんのテーマを、シンプルに整理して、絞り込んで精緻化した作品と言ってもいいのではないか。「長編二作目」として、納得できる転回なのである。

 個人生活における、深刻な愛の喪失という、もう一本の柱がない分、結末のトーンは少々、明るい。このことは、一つ、確認しておきたい。


 『日の名残り』

 Amazon内容紹介  「短い旅に出た老執事が、美しい田園風景のなか古き佳き時代を回想する。長年仕えた卿への敬慕、執事の鑑だった亡父、女中頭への淡い想い、二つの大戦の間に邸内で催された重要な外交会議の数々……。遠い思い出は輝きながら胸のなかで生き続ける。失われゆく伝統的英国を描く英国最高の文学賞、ブッカー賞受賞作 」

 第一作目、二作目が「戦後の日本、長崎を舞台にした」ものであったことについて、この成功は、複雑な思いをイシグロに抱かせたことは想像に難くない。きちんと小説を深く読む読者たちには、扱っているテーマの普遍性は理解されていたとしても、より一般の理解としては、「日本出身の小説家が、日本の戦後を舞台にした小説で成功」というイメージが固まってしまう危惧を抱いたのではないか。

 第一作、第二作で追求した、「戦中の政治的責任のある世代が、戦後、そのことをあいまいにしつつ生きる。しかし下の世代とのやり取りの中で、そのことに直面し、苦しむ」というテーマから、「日本の記憶、戦後日本というオリエンタリズムあふれる舞台設定」を完全に捨てたらどうなるか。日本という特殊要素を捨てて、どのような小説が書きうるか。これに挑戦したのが第三作にして、最高傑作と言ってもよい『日の名残り』である。


 このテーマを英国に移すにあたって取られた舞台と主人公が「先の大戦に向かう戦前、ナチスを支持してしまった英国の政治家・貴族の邸宅の、執事頭」スティーブンスという人物である。


 この設定の秀逸さというのは、もし「戦争中、ナチスを支持してしまった政治家・貴族」本人という、多くの人に実在の人物(例えばチェンバレン卿)をイメージさせやすい主人公にした場合と比較して考えれば、よく理解できる。

 貴族・政治家自身の苦悩と後悔であれば、それは多くの歴史研究者による研究書も、彼ら自身で書かれた自伝も回顧録も存在する。それらを上回る文学作品を、フィクションとして組み上げるということは、難易度が高い。小説が魅力的に仕上がったとしても、小説の魅力が、そうした実在の人物自身の、知名度や魅力に負っていると評価されるリスクもある。


 それに対しイシグロの考えた小説設定アイデア、執事頭という主人公を語り手にするという、この設定は、これは文学史上の一大発明と言えるようなビッグアイデア。秀逸なものであった。ここでは、ここまで二作の「教師」や「大家の画家」という、社会の中での知識層に属した人物でも、ただの労働者階級でもなく、「社会の指導層、知識層のごく近くにいる。労働者階級の人物の目を通して小説を語る」という、そうでなければ描けない、社会と歴史に翻弄される人生の悲哀を描き出すことに成功しているのである。


 執事という仕事のプロとしての誇りを抱き、勤めてきた人生。そのことは、本人にも読者にも、誰にも批判否定できないそれ自体の尊厳、価値がある。しかし、その仕えた主人である貴族・政治家が、戦中に戦争に責任を負うべき人物だったとしたら。その人物を超一流の人物として尊敬し、仕えてきた執事頭の人生の価値は、なにがしか損ねられてしまうのか。彼は、後悔すべき、恥ずべき人生を送った人物なのか。


 知らずに、時代の悪に加担して、しかし仕事には誠実に生きてきた人、というのは、戦時中に限らず、常に数多く存在する。原子力発電が深刻な事故を起こし、原発の開発や建設、その事業を進めたこと自体が大きな過ちだとされてしまう時代。原子力発電に人生を賭けて誠実に生きてきた多くの人は、その意味をどうとらえて、この時代を生きているのだろうか。このテーマは、「戦争をめぐる」という枠さえ飛び越えて、時代の価値観が大きく転換する中で翻弄される人生の意味を描く、という、大きな普遍性に到達しているのである。
 
 その一点においてさえ、この小説は、超一級の小説である。しかし、この小説は、その最終幕において、現在のイシグロ作品に通じる、さらなる深みへと、テーマを深化させていると、私は考える。


 「日本という舞台を離れたこと」「執事という絶妙な人物設定」にとどまらず、私がイシグロについて論じたい論点、イシグロ作品に通底する、いちばん重たいテーマがこの作品の、その最終盤において、明確に表れるのである。これは、第一長編作『遠い山なみの光』で、子供を自殺で失った主人公の思い、という形で、小説のいちばん外側の骨格として、提示されていたテーマ、『浮世の画家』では、いったん、除外されたテーマといっていい。


 政治的な意味での人生の失敗というものは、大きな歴史の流れで、避けようもなく個人を襲う。誠実に仕事に尽くしてきたつもりでも、意図せず戦争を推進したり人道的価値に反する側を支援したりする「仕事の立ち位置」がなってしまうことは。誰の人生においても、起こりうる。その後悔は、運命として避けようがない。これが「仕事と政治的責任」における、取り返しのつかない後悔・その①である。


 しかし、『日の名残り』のクライマックス・シーンの後悔は、その「仕事・政治的責任」における後悔を描いているか?


  NOである。


 女中頭ミス・ケントンとの愛を獲得できなかったこと。仕事を優先して、彼女の愛に応えなかったこと。よって、これから先の人生において、彼女と生きることができないということが、痛切な後悔とともに描かれるのである。取り返しがつかないのは、自分の過去の人生において、真の愛を生きてこられなかったこと。そのために、その結果として、これからの人生において、愛を分かち合うパートナーを得られない、愛の無い人生を生きなければいけないという絶望である。これは、過去への後悔だけではない。これから先の人生への絶望なのだ、ここで描かれているのは。

 小説のラストは、現在のお屋敷の主、ご主人様、アメリカ人のファラディ様の期待に応えようと、アメリカ人の喜ぶジョークを研究しようと思うことで終わっている。かつてのご主人の、政治的失敗を見つめて受け止めることもできず、女性に対する愛に向き合うこともできず、それでも、まだしばらく、この先、人生は続いていくのである。日の名残り、それでも一日は終わってはいないのである。

 カズオイシグロは、第三作、『日の名残り』において、ついに、人生終盤の取り返しのつかない後悔を、「仕事と政治的責任、誠実に仕事に取り組んできたのに戦争に責任がある」という後悔に加えて、「真の愛をパートナーと築かなかった後悔。その報いとして、これから先の人生において、愛の無い人生を生きざるを得ない」という、決定的な絶望に主人公が直面するというテーマに到達したのである。

 日本がイギリスが、ということを超えて、この、イシグロにとって、最も本質的で重大なテーマが、純粋な形で結実したのが、傑作『日の名残り』なのである。

第二回、終わり。次回は『充たされざる者』『わたしたちが孤児だったころ』 下の下線部クリックで飛びます・

カズオ・イシグロに最適の年齢  ③『充たされざる者』から『わたしたちが孤児だったころ』


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