話題のアメリカ連邦議会動画(コロナ検査無料答弁を勝ち取る)と、日本では、山尾志桜里議員が立憲離党。ふたつの出来事から、日米の政治意識の違い、「立憲主義と法の支配」について考えたこと。

 アメリカ連邦議会での、民主党下院議員ケイティ・ポーター議員が、アメリカ疾病管理予防センター局長への質疑応答で全国民へのウイルス検査無料化を勝ち取った動画。かなりバズっています。見ていない人はぜひとも見てほしいのだが。

 この動画について、ツイッターでの反応を見ると、「日本には皆保険制度があるが、米国はそうじゃないから」みたいな、まあ、正しいけれど、そこ?っていう指摘するコメントが結構ある。今、ここで僕が論じるのは。コロナ検査無料という具体的中身についてのことではない、ということを、まず言っておきます。

 次に、単に「この議員がすごい」っていう、議員の資質みたいな反応がツイッター上には多いのだけれど、それも違う。こういう資質をもった議員は日本にもいます。

 これは、政治制度と政治意識・風土、両面から「立憲主義」「法治主義」「法の支配」ということについての日米の違いを浮き彫りにしているから、すごい動画なんだよね、ということについて書いていきます。


 またそれは、一昨日、立憲民主党を離党した山尾志桜里さんが、離党の理由として挙げた「議論の在り方」「立憲主義」について、党に失望したことと重なるものでもあると思うので。

 以前にブログで書いたのだけれど、日本人一般のみなさんに、政治と法と三権分立と、というあたりについて、何か語ろうとすると、ものすごく根本的なところから、その認識を改めてもらわないと理解してもらえない場合がある。今回も、そこからやります。「わかってるよ、えらそーに」と思う方も多いかと思いますが、私の頭の整理でもあるので、お付き合いください。

 「法」=「ルール」、なんか、社会がうまくいくように、社会の決まり事をみんなで話し合って決めたもの、っていうふうに、日本人は普通に思う。「権力のおっかなさ」には思い至らず、「みんなが仲良く、困らないようにするルール=法」って考えがちに、教育されてきた。

 あるいは、悪いことをする国民を取り締まるルール=法とかね。「みんなのルールはみんなで守ろう」意識。

 たしかにそういうたぐいの法律というのもあるのだけれど、そういう認識だと、政治とか三権分立というのは、根本的に、分からない。

立憲主義の話になると「でも、憲法は」っていって、憲法だけが権力者を縛るものっていうふうになるのだけれど、僕は、それも不完全だと思う。法治主義、法の支配、三権分立を理解するには、法そのものと権力について、きちんと理解しないといけないと思う。

 政治権力というのは、他者に無理やり意に沿わないことを強いることも可能な力(実力と言うけれど、最終的には暴力)。政治権力とはその国家内において、その暴力性を排他的に正当に独占している、ということ。

 税金を取り立てるとか、悪いことをした人を捕まえて刑罰を下すとか、「いやだー」と逃げようとしても、無理やりつかまったり、家財を持っていかれちゃったりするでしょう。政治権力は、最終的に、暴力性に裏打ちされている。

 そういう「無理やり従わせちゃうパワー」が政治権力の本質だとすると、それをいつ誰がどう使うか。大昔の専制政治だと、絶対君主が好き放題に仕えちゃうわけで、その君主が「名君」なら世の中はバラ色だけれど、「暴君」だと、ご機嫌を損ねたら死刑っ、となっちゃったわけだ。

 この政治権力を、みんなで共同管理して、誰かが好き放題使わない、と同時に、必要な時に素早く妥当に仕えるようにしよう、というのを、人類が長い歴史の中で工夫に工夫を重ね、闘争の末に手に入れたのが、民主主義、立憲主義、法の支配、三権分立、という仕組みだということ。

 ここまで理解すると、法の本質というのは、(憲法だけじゃなくて)、「どういう場合にはどんくらいの政治権力パワーを出していいか。出すべきか」を決めたもの。それが法、と考えるのが、分かりやすいよね。

 で、「こういうときにこういうパワー出してよし。出すべし」の法を決める人(立法)と、実際、そのパワーを行使する人(行政)、そのパワーが正しく使われたかどうかをチェックする人(司法)を分けようっていうのが、三権分立なわけだ。

 政治的パワーが、おっそろしい暴力性を本質に持つ、ということをよーくよーく理解しないと、三権分立がどれだけ大切かを、みんな忘れてしまうわけだ。

 で、まあ、司法っていうのは、本当に違反があったんじゃないかっていうときにチェックして、止めたりするする罰したりする機能なので、通常、行政が正しく権力を行使しているか、とか、「使うべき時に使ってないんじゃないの。今、使わなきゃ」っていうことを、法律を作った立場でチェックするのは、立法府、国会の仕事の一部になっているわけだ。

 「野党は批判ばっかり」っていう人は、ここんところが根本的にわかっていないお馬鹿さんなわけだ。行政権を持つ政府が、パワーをいい加減に使っていないか。逆に使うべきなのにサボっていないか。それを批判するのは、国会の仕事。そして、議院内閣制だと、与党と内閣はほぼ一体だから、それを批判し監視するのは、野党がその役割を主に担う。

 だから、そもそも、議席数に比例して与党に国会質問の時間をたくさん割りふること自体、三権分立と議院内閣制が合体した日本の政治制度の下では、論理的におかしいんだよね。分かるでしょう。「野党は批判ばかり、対案を出せ」が、民主政治の本質について何も分かっていないオーバーカーさんであることを、ここではまず、言っておきます。

 ということで、あの動画を思い出してみよう。アメリカ疾病予防センター局長っていうのは、行政の人なわけだ。そして、あの動画で議員さんが、「あんたが今やらなきゃいけない根拠」として持ち出す「42CFR71.30に基づき」のCFRというのは、連邦規則集(Code of Federal Regulations)というやつ。これは、議会で正式に制定された法律ではなくて、どちらかというと、政令集とか運用規則みたいなもだが、アメリカはイギリス同様、習慣法、判例主義の国なので、全部が全部、国会で決めた成文法になっているわけではなく、運用上の指針が実質法律として扱われているのだな。

 それに基づいて、議員さんは「あなたはこれを、今、ここで決めることができる。いや、決めなくてはいけない」っていう迫り方をするわけ。

ここ、すごく大事なポイント。
「今、ここで決めることができる」
というのと
「今、ここで決めなくてはならない」
のふたつのことを、あの議員さんは言っているわけ。

法律があるから、あなたはこれができる。
だけじゃなく、
法律に決められているんだから、今、あなたが、しなきゃダメでしょ。すぐに。

 「政治風土」の問題、と僕が書いたのは、このふたつのニュアンスを、追及している議員も。されている疾病センター所長も、それを見ている国民も、当然のことと受け止めている、という点なんだよね。

 あなたは、この法律に基づいて、この問題について、決める権限を持っている。

と迫られたのに対し、疾病対策センター所長は、何度も「いや、だから、その運用の仕方とかをいろいろ検討しております。」って、日本の役人同様、同じように何度か、答えを引き延ばそうとするのだけれど、

 「運用の方法はどうでもいいの。後でいいの。とにかく、無料にするかしないかは、今、あなたは、この法律に従って、決めることができる。いや、決めなきゃいけないの」と詰め寄られると、

疾病対策センター所長も。
「決めなきゃというなら、それはYES、無料にする。」
という。決める。決めなきゃいけないんだもん。

 何か、法の力を行使する権利は、この法律で、あなたにあるとされている。その力は、今、使う必要がある。ならば、あなたは、それを使わなければならない。それをぐずぐす引き延ばしたりすることは、許されない。不作為(しないこと)、引き延ばしは、法を制定した精神に反するのである。

 この、法律に決まっていたら、そのことが国民の前に明らかになったら、「しない」「引き延ばす」という選択肢は無い、というのが、アメリカと日本の政治風土の決定的な違いだなあ、と初めて思ったのが、恥ずかしながらドラマ「24」のシーズンいくつかを見ていた時。

 ドラマのクライマックス、大統領が憲法違反をしたことが、司法長官、その他高官たちの間で、明らかになった。司法長官はもともとは大統領が任命した部下。しかし、そんなことは関係ない。大統領が憲法違反をしたことが何人かの政府高官、捜査当局の間で事実として共有された瞬間、「逮捕する」しか選択肢がない。そのことを当たり前のこととして、ドラマが進行している。それを見て、びっくりしたわけ。「え、日本だったら、ここで、どうする?隠す?忖度する?みたいになるよなあ」と思ったわけ。ドラマの脚本を書いた人も、ドラマを見ている人も、「大統領の憲法違反が、これだけのメンバーに共有されて明らかになったら、これは、もう、一旦、逮捕するしかないやんな」という共通認識がある。アメリカだと、それが当たり前なんだあ、と思ったわけ。立憲主義、法の支配が、FOXテレビを見る保守派大衆にも、共有されているわけだ。

 「立憲主義」「法治主義」「法の支配」っていうのは、こういうことで、それは、国会議員も、行政機関も、そして何より、国民全員が、それが当たり前だと共有しているということ。

 森友問題が、黒川検事長定年延長問題が、なぜ、コロナで大騒ぎのこの時でも大事なのか。そのことは、国会でやらねばならないのか。そのことがわからない日本人は、民主主義、法治主義、三権分立、そのどれひとつとしてわかっていない、民主主義年齢三歳児なのだということを、書いておきます。

 山尾議員が、立憲民主党を離党したのも、「ご大層な党名のわりに、党の幹部の人たち、このことがわかっていない人たちばっかりなんだもん。」と思ったからなんだと。そう思いました。

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