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過去ブログ転載 2015年9月28日 五郎丸のタックルと、長男の思い出。

五郎丸のタックルと、長男の思い出。

 長男、次男がかつてラグビーをやっていたのが、私がラグビーを真剣に見始めたきっかけ、というのは、前回のブログで書いた。長男と次男ではラグビーとの関わりがずいぶん違う。

 長男から三男まで、小学校時代はみな柔道をやっていた。小学校時期の柔道というのは、市内から県くらいのレベルの試合や団体戦はすべて体重無差別で行われる。全国小学生大会個人戦だけ体重区分があるが、六年生で55kgを境に軽量級と重量級がざっくりふたつに分けられるだけである。長男と三男は「肥満児」妻の遺伝子を受け継ぎ、チビではあるが、太っていたので、体重的ハンディをあまり感じないで戦うことができた。しかし、二男だけは私に似たために、チビなうえにやせっぼちという大きなハンディをかかえて戦うことになった。6年生のときの体重で言えば、長男が55キロくらい、二男が32キロ、三男が65キロ、というところだろうか。

 長男は相模原市内では最強、三男も市内大会では、後に東海大主将、全国大学選手権100キロ級王者になる長沢憲太以外には負けない、市内二番目に強い男になった。二人とも、県内ではベスト8くらいだが、中学で体重別になり、本格的に鍛えれば、もしかすると全国も狙えるかも、というレベルの力だった。しかし二男だけは、軽量の悲しさ、技術的には兄に遜色ないレベルにあったのだが、ときどき市の小さな大会で三位入賞する程度、兄との戦績の差に悲しい思いをしていた。

 長男と三男は中学から柔道の強豪校、桐蔭学園に進学した。(といっても、柔道部には全国レベルの実績を持つ子のみがスポーツ推薦で集められるので、そこまでの実績を持たないうちの子たちは普通に勉強をして受験をし、「一般入学組」として柔道部に参加することになる。)

 一方、柔道で兄弟と比較されるのがいやだった二男は、桐蔭学園、中等教育学校にも合格するのだが、柔道部のない、制服もない、共学で楽しそうな公文国際学園に進学することを選んだ。柔道の呪縛、兄との比較から解放されたかったのだろう。そこで、さほど深い考えもなく、はずみのようにラグビー部に入部する。生徒数が少なく、(一学年160人、共学なので男子は80人しかいない)ので、ラグビー部人数はチームが組めるぎりぎり。「弱小」部かと思いきや、ここでまた桐蔭学園との不思議な縁が続く。公文国際学園のラグビー部監督は、かつて桐蔭学園ラグビー部でアシスタントコーチを務めた新堀先生だった。公文国際学園が新設されたときに、「ラグビー部を作り顧問に就任」することを条件に学校創設から育ててきたラグビー部だったのだ。新堀先生は筑波大学の出身。大学時代にラグビー経験はない。桐蔭学園でラグビー部の指導を手伝う中で、独学でラグビー指導理論を徹底研究。それを自由に実践する場を求めて公文国際学園に来た。少人数かつ経験者の全くいない公文国際学園ラグビー部を関東大会にときどき出場できるまでの強豪校に育て、ラグビーマガジンの指導法紹介ページで取り上げられたこともある名監督だったのだ。

 二男は体が小さかったとはいえ、実はラグビーと柔道は体の使い方に共通点が多い。チビでやせっぽちで(ここまではわたしそっくり)そのうえなぜか走るのが遅いにも関わらず、新堀先生の指導にぴったりはまり、チームの主力選手として成長していった。高度な技術スキルと、何よりも高い競技理解を獲得することで、(公文国際学園の中学ラグビー部員は、同時に鎌倉ラグビースクールにも所属して基本からラグビーを叩きこまれるのだが)、中三のときには「県ラグビースクール県選抜候補」にまでなる。二男だけでなく、この時期、公文では、基本技術とラグビー理解の高い選手がたくさん育っている、二男の代の主将北澤くんは早稲田の名門ラグビーサークルはG&Wでも主将を務めることになるし、スクラムハーフ小野君は上智大学ラグビー部主力になる。一年下の学年では、早稲田体育会ラグビー部のAチーム、16番をつけて公式戦にたびたび登場するプロップになった光川君、慶応体育会ラグビー部でAチームには上がらなかったものの4年間やりぬいたスクラムハーフ掛橋君、ウイングの平木君を輩出した。

 この時期の公文国際学園ラグビー部、新堀先生の指導内容がいかに優れていたかがうかがい知れる。二男たちとその下の代によって組まれたチームは、関東大会出場チーム中、最少人数かつ最軽量であったものの、関東新人戦県予選優勝、関東大会県予選準優勝、(ただし最後の花園予選はシードされたのに初戦敗退という残念な最後であった)という県内で「シード校」の強豪チームであった。

 一方の長男とラグビーの出会いは高校の秋になる。二歳違いの二男が中学でラグビーを始めたずっと後である。

 まず、初めに、長男は「桐蔭学園中学校」に入学したのだが、入学直後に、成績優秀者だけを「桐蔭学園中等教育学校」という別学校に分ける、という、学校都合の制度改革に翻弄されることになる。桐蔭学園は20年ほど前、一時期東大合格者数全国一になったのだが、その後マンモス校化を進める中で進学成績は急降下。中学受験で言えば偏差値45くらいの中堅マンモス校に成り下がってしまった。そんな状況を打開しようと、単に「進学コース」を作るのではなく、文科省が新設した「中高を完全にひとつの学校にする中等教育学校制度」を利用し、同一敷地内にまったく別の学校を作り、そこを進学特化校にするという改革を行った。もともと勉強のできた長男は、中等教育学校一期生となった。(以下、中等、と略します。高校の年齢になっても、呼び名は「中等」です。高1は中等4年、高3は中等6年です。)

 ところで、別学校ということは、スポーツチーム、部活動も別チームとなるのか?という点が問題になった。桐蔭学園には柔道だけでなく、ラグビー、サッカー、野球、剣道など日本一経験のある名門部が多数あり、「勉強でも東大を目指すが、スポーツでも全国を目指したい」という文武両道志向の生徒が多数集まっているのだ。桐蔭中等教育学校に入ってしまうと、桐蔭中学校、桐蔭高校の生徒とは同じ部としては活動できなくなるのか。本人も親も心配、混乱した。

 この問題について、中体連と高体連で、見解が異なった。中体連は「同じ敷地にある学校で、練習も一緒にしているのだから、合同チームとして両校でひとつのチームにしていいよ」となったが、高体連は「あくまで別チームにせよ」ということになった。このことが、長男の柔道部生活、ラグビー部移籍に大きく影響してくるのである。

 長男は中学時代、個人戦81キロ級県準優勝、関東大会には出場したもののの、全国大会出場は逃した。県決勝で負けた相手は、全国屈指の強豪道場、朝飛道場出身、この年の中学タイトルを国士舘とすべて分け合った六角橋中学校のエースの英(はなぶさ)君。(今年の世界選手権の100キロ級世界王者、羽賀龍之介君が、朝飛道場、六角橋の後輩だ)。英君は中二のときから全国大会上位に入賞し、全柔連全国強化選手に選ばれている。横浜市決勝でも県大会決勝でも長男は英君と激突。団体戦でも桐蔭学園チームの中堅として、常に英君と激突してきた。しかしどうしても英君には歯が立たない。どうやって英君に勝つかをただひたすら考えて努力する中学の柔道生活を送ってきた。

 高校に進学すると、なんと、その英君が桐蔭柔道部に入学してきた。英君だけでなく各階級の全国大会優勝者、上位者が高校から大挙して入部してきた。全国大会優勝するような子たちと、自分との間には、越えられない壁があるように長男は感じた。その上、長男は柔道部の中でただひとり「桐蔭学園中等教育学校」所属である。「桐蔭学園高校」とは別の学校の生徒として、ただひとり練習にも試合にも参加することになる。当然、団体戦に参加することもない。

 それだけではない、桐蔭学園の生徒は、県大会に出場するにあたってさえ、厳しい校内予選を勝ち抜かなければ試合に出られない。全国大会上位の実力者であっても、校内予選で負けて対外試合に出られない仲間や先輩も多い。そんな中「ひとりだけ中等教育学校」である長男は、実力的にははるかに下であるにも関わらず、別学校、別枠扱いなので校内予選なしに公式試合に出られてしまう。事情がよくわからない先輩や同期から「あいつ、弱いのに、なんで試合に出てんだよ」という批判、いじめとは言わないまでも、一人だけ浮いてしまう雰囲気になる。そんな孤独感にも耐えられず、長男は、高1の一学期で柔道に挫折した。夏休み終わりから次第に練習に出なくなり、二学期には退部してしまった。

 一方、桐蔭中学から高校に上がるときに、ラグビー部でも、「中等教育学校」問題は噴出していた。中学時代、「中学校」と「中等」はひとつの「桐蔭学園」チームとして、東日本の中学最強チームとして君臨してきた。そのレギュラー部員の中にも数人の「中等」生徒がいた。高校になり、さあ、花園を目指すぞ、という段になり、「中等」生徒は、桐蔭学園高校とは一緒のチームでは大会出場はできません、となったのだ。活動場所を失った中等教育学校4年生の(学年的には高1相当になった)ラグビー部員たちは、中等教育学校としてのラグビー部発足を求めて活動を始め、他の部活でも活動場所をなくした生徒に声をかけ始めた。

 そして、柔道部をやめて、勉強もやる気がなくなり、ぶらぶらしていた長男に、中等ラグビー部の、中村君が声をかけてきた。「ラグビーやろうぜ」。

 ラグビーという競技理解がまったくない長男は「太って背が低く力が強い」人間ができるポジションということで、当然のようにフッカーをやることになった。実は柔道時代に頚椎を痛めた古傷があるので、スクラム一列目は危険だったのだが、当時はそんなことは考えていなかったようだ。

 球技の中でも、ラグビーはルールが複雑だ。そもそも、ゲームの多様な場面において、その瞬間に「どこに立って、どっちを見て、何を考えているべきなのか」「何はしていいが、何はしていけないのか」を理解できるようになるのに、かなりの経験を要する。単に文章で書かれたルールだけでは、よくわからない。ラックの中のボールを手で扱ってはいけない。横から入ってはいけない。と書いてあるからと、長男はラックの上にまっすぐ踏み込んでいって、人と一緒にボールをめちゃくちゃに人と一緒に蹴り飛ばして反則を取られたことがある。トップレベルのゲームでもときどきそういう乱暴なことをする選手がいて、そういうプレーを見ると長男を思い出す。人を蹴ったり踏んづけたりを故意にするプレーは、それはそれとして反則なのだ。

 長男をラグビー部に誘ってくれた中村君は、ラグビー理解も高いうえに、とても面倒見がいい。彼はいつまでたってもルールや、何をやったらいいかを理解しない長男を気にかけてくれて、練習中も試合中も「はらちゃん、(ラックやモールに)入れ、入るな」「誰を見ろ」「どこに行け」といつもいつも指示を出してくれていた。長男は中村君コントローラーがついていないと何をどうしていいか、最後の冬の花園予選まで、結局わからなかったようだ。

 一方、彼は、タックラーとしてはチームで一二を争うハードタックラーだった。太っている割に走るのは早いし、柔道部時代も、全国屈指の強豪校の120キロもあるようなエース級の巨漢を谷落とし、裏投げで放り投げて失神KOをさせたこともある「投げ技」の天才だった。今ほどスピアタックルの反則がきつく取られない時代だったので、160センチ75キロという、体型と髪型と風貌が「ボブ・サップを160センチにしたような感じ」の長男は、自分より、はるかに大きい「180センチ級」の巨漢相手にハードタックルを決めてふっとばすことがときどきあった。そんなときだけ、「ちょっとチームに貢献できた」と実感していたようだ。

 桐蔭中等教育学校一期チームは、チーム発足当時は未経験者がほとんどを占めたため、普通の県立高校チーム相手に100点差で負けるようなところからスタートしたが、顧問の加藤先生(加藤先生にもドラマがあるのだが、それはまた別の機会に)の指導の下、すこしずつ力をつけ、高3最後の花園予選では初戦二戦を見事な勝利で勝ち上がり、県ベスト16まで勝ち上がった。ここでシード校、日大高校と県ベスト8をかけて激突した。

 やっと、五郎丸のタックルのような、長男のタックルの話になる。

 日大との試合は、一進一退をつづけ、同点(10-10だったような気がする)のまま、後半20分を超えた。高校ラグビーは前後半30分ハーフ。日大が桐蔭中等22メートルライン付近まで攻め込み、球を回してラインブレーク。私たちがちょっと高台のスタンドから見ている側のタッチ際ゴールラインに向けて相手ウイングがトライしようと突進してきた。

 その瞬間、なぜそこに走りこめたのか、よくわからないが、黒い弾丸のようにチビデブ長男が戻りながら突進してきてタックル、トライの一瞬手前で相手ウイングをボールごとタッチラインの外にはじき出した。まさにこの前のスコットランド戦の五郎丸のタックルのように。妻も私も、五郎丸のあのタックルを見て、高校最後の試合の、長男のタックルを思い出した。結局試合は、その後日大高校がワントライを挙げて、桐蔭中等一期生の高校ラグビーは終わった。失点につながる流れの中で、長男はミスを犯したと、試合を終わった後、ずっと下を向いたままだった。着替えて、試合会場から駅に向かう坂道を歩く間も、下を向いたままだった。仲間は「おまえのせいじゃない」と慰めてくれていても、「ラグビー理解が低くて、やっちゃいけないところで、判断ミスをしたせいで」と長男は自分を責めていたのだろう。

 でも父も母も、あの、五郎丸のやったみたいな、相手のトライを寸前ではじきとばす、スーパータックルを見られて、心に刻み込んで、大満足だよ。今でも、あのタックル、まぶたの裏に、いつでも思い浮かぶよ。五郎丸のタックルを見て、思い出したこと。おしまい。

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