見出し画像

「光る君へ(21)旅立ち」感想つれづれR18版。なのでR18嫌な人は読んじゃダメよ。読んでから苦情言わないでね。

「光る君へ(21)旅立ち」
感想つれづれR18版。なのでR18嫌な人は読んじゃダメよ。読んでから苦情言わないでね。

(脚本家 大石静氏「平安時代のセックス&バイオレンスを描く」意図を受けての大人解釈。だってそこをスルーしてこのドラマを語る人がたくさんいるんだもん。そこは脚本家意図をすなおに受け止めて、ちゃんと語り合おうではないですか。という意図のもとに書かれています。)

 あれだけ伊周に「皇子を産め」と言われていたのに、なかなかできなかった一条天皇と中宮定子。この長徳の乱で定子が突然の出家、もう定子に会えないとなった一条天皇の悲しみと苦しみ、というのは2回前の「真昼間っからお渡りになって」のことを思い出せば、このとき一条天皇16歳定子20歳、会えばしたい盛りの二人が、急に会えなくなったという悲しみとしてまず理解するのが正しいと思うのだよな。強烈な愛と性欲が一体化したものと葛藤しながら、「中宮も同罪である」という道理にかなった決断をする一条天皇16歳。偉い。その決断直後「あーーーっ」と絶叫する一条天皇。この苦悩の激しさ。この二人の「愛と性欲一体の結びつきの強さ」というのは、今後の展開から(ネタバレいやな人のために詳しくは書かないが一条天皇はあくまで定子に執着し続けるのである)、そして中宮定子が崩御する際の、辞世の句とは言わないか遺詠「夜もすがら契りし事を忘れずは こひむ涙の色ぞゆかしき」からもうかがい知れる。死ぬ時にも、一晩中契りあったことを思い出すのである。これだけ性的に愛し合うことの深い思いの中で生きたのであるよ中宮定子は。そういう男女の関係というのはあるということを理解しましょう。文学を分かろうとするなら。そう思うわけだな、僕は。

 そして皮肉なことに定子はご懐妊していた、という「愛と性とこどもづくり」ということを軸にこの時期の政治が回っていた、まずそれを中心に描いているのだな。

 大事なことだからもう一度、書くぞ。「愛」というのは「性」行為と結びつき、それだけではない「性行為」というのは「生殖行為」であり、子どもが生まれる、そのことを通じて政治が回っていたのが平安時代だということを、大石静氏はこのドラマで描いている、ここからも描いていくのである。その政治の構造の上に、平安文化とか文学というものも成立しているのである。

 ということをこの少子化と性的多様性の時代、つまりは生殖行為としての性行為と、愛や結婚というもののつながりが、「多様性」の名のもとにどんどん希薄化崩壊減少している現代の視聴者にどう届くのか。そういう反時代的挑戦を大石静氏はしていると思うのだよな。伊周の「皇子を産め」と定子に迫ることが現代の視聴者に異様に見えるのは、それはあちらも異様だがこちらも相当に異様な価値観、状態に生きているのである、歴史的視座に立ってみれば。そのギャップの大きさゆえに「異様」に響いたのである。

 その、見苦しいことこの上ない藤原伊周、おかあちゃま貴子が一緒に大宰府にに行ってくれるということで、やっとおとなしくなったと思ったが、許してもらえず、おかあちゃまだけ引きずり戻され「お前は馬でいけ」と言われて泣きわめく伊周。マザコン伊周である。

 それやこれやで今回は大忙しの検非違使の別当(長官)にあった藤原実資ロバート秋山、忙しくて若い妻のお相手がお留守になっているために「もうーー」と攻められ迫られころがされ着物を脱がされ太鼓腹マニアの若い嫁に腹をまさぐられる。ここは「今少し待て、今少しじゃ」というロバート秋山のアップで、したんだかしなかったんだか、ぼやかして終わるのだが。
 今回、いちばん大事なところは、ロバート秋山夫婦がしたかしなかったのか、ではなくて、「まひろと道長は、キスの後、したのかしなかったのか」なのだな。

 廃屋での道長とまひろのラブシーン。その会話からのキスに、ツイッター上も大いに盛り上がったのだが、びっくりしたのが、あそこはお別れのキスだけして別れた、と多くの人が受け取ったのだな。えー、そんなことあるかい。

 ロバート秋山シーンで今回脚本と演出は「今回については、するところをもろには描かんよ」と予告しているのである。

 だから、あそこでは、思い出の廃屋でキスしちゃったら、まひろと道長はするほうが自然ではないか。やけぼっくいに火が点くに決まってるじゃん。と僕は思うのだが、ほとんどの視聴者は、あそこは10年たってお互いの思いを確認し合いつつ、キスだけで別れる切ないシーン、と受け取ったみたいなんだな。そんなもん、平安時代の人ならば、平安人でなくても、あそこはするんじゃないのか。

 いやたしかに、これまで、このドラマ、演出、するときはちゃんとからだが重なり合うシーンを描いているので、「今回それを描かなかったということはしなかったということだ」という受け止め方も妥当性はある。どうなんだ。そこのところ、どうなんだ。

 さてその一方、前回あたりから今回にかけて、佐々木蔵之介藤原宣孝がまひろを女としてどんどん意識するようになるのが丹念に描かれ、そして越前には松下洸平が宋人周明役で登場となる。

 今後の展開としては、越前から帰ってきたらまひろはわりとすぐ佐々木蔵之介藤原宣孝と結婚しその子供を産むというのが史実だが、「でも、それってほんとに宣孝の子供なの」という疑問が生まれてくるではないですか。ねえ。

 ツイッター上でいちばん大胆な予想は、廃屋でしたときの道長の子ども説。それから越前で松下洸平との子供ができてあわてて(任期はもっと長いのに、わりとすぐ帰って来ちゃうはず。)偽装工作として佐々木蔵之介が協力して結婚してくれちゃう説。いろいろまあ考えられる。

 「源氏物語」という、性と愛をとりまくあらゆる機微を内包する名作を書くことになるまひろ、紫式部なんだから、その人生でものすごくいろんな体験をしたんだよ。だとすると、あの廃屋での再会が、「美しい別れのキス」だけでは終わっていないはずで、越前で松下洸平と新しい恋をしたりするのかしないのか、そして帰ってきて佐々木蔵之介と結婚したりする決断ができるのは、最後に一回、今回の廃屋で道長ともう一回しちゃって、そこで気持ちの整理がついたからだと、僕は受け取ったのであるが。

みなさんは、どう受け取りましたか。

「追記  今回、「枕草子誕生秘話」のところの素晴らしさを語る人も多いのだが、たしかに無言での美しいやりとりと自然が描かれて、あそこは芸術度高かったとは思うのだが、あるいはまひろと清少納言のやりとりで、「なんで枕草子という名前になったのか」の諸説をどんどんぶっこむという遊びも面白かったが。
 でもなあ、今回の焦点は、「道長とまひろは、あそこでやったんかどうか」だと思うのである。」

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?