最長在任記録更新の日に思うこと。冒険遺伝子から、斜め上から考えた、政治家、国のリーダーの条件。


 遺伝子と性格、という話をすると、すぐ「優生思想か、けしからん」という話になる。きっと、そういう批判をする人が湧いて出てくると思う。が、最後まで、ちゃんと読んで、批判をするなら、してください。お願いします。10000字近い、長文ですが。

 僕は、以前、ある企業が「遺伝子検査サービス」に参入する際、その導入マーケティングコミュニケーション戦略の立案に関わったことがある。いくつか先行サービスがある中での参入だった。遺伝子を解析して、病気のなりやすさとか体質の特徴とかを分析し、アドバイスする、というサービスだ。医療行為、診断にならないよう配慮しながら、どう良さを伝えるか。そういう仕事だった。

 私は、仕事をするときは、その商品も、競合商品も、買って使って体験することにしている。よほど高額でない限りは。

 ということで、自社他社・合わせて三社の、遺伝子検査サービスで、自分の遺伝子配列を調べてもらった。遺伝子情報なんて、究極の個人情報なのだから、軽々に企業に渡したらいかん、という意見もあるが、とにかく仕事熱心な私は、そんなことは気にせず、唾液を送って、各社さまざまの分析レポートを比較してみた。

 「肝臓ガンに、平均的日本人より何パーセントなりやすい、でも胃ガンには何パーセントなりにくい」などというショッキングな内容もあれば、「背が低い」とか「近視になりやすい」とか、「髪の毛が太い。はげになりにくい」とか、わかっているよ、そんなこと、というのもある。「頭はあんまりよくない」って失礼だな。「あなたの祖先は東南アジアから来た、一番大昔からいた日本人。縄文人です」とかなんとか、そういう祖先探しみたいなものもある。

 そんな中で、「冒険したくなるタイプか」という項目の判定があり、私は、そういうタイプではなかった。

 冒険する、しない、みたいなことに影響する遺伝子がある。ドーパミン受容体遺伝子の変異種「DRD4-7R」というのを持つかどうか。冒険家遺伝子とか、旅行熱遺伝子とか言うらしい。全人口の20%が持っているという。ひとところにじっとしていられない性質になる。

 アフリカから離れれば離れるほど強くなるとか。ニュージーランドのマオリが圧倒的に戦闘が強い、ニュージーランドがラグビーだのヨットだので圧倒的に世界一強いのは、この遺伝子を持つ人が多いせいとか。マオリは、東南アジアから、太平洋を南米すぐ近く、イースター島まで行って、戻って帰ってきてニュージーランドにたどり着いた、つまり、人類でいちばん遠くまで冒険した人の子孫だから、という説もある。(本当かどうかは知らんが。) 

 人類のある集団が、ずっと同じ場所にとどまり続けていると、その場所が天変地異などに襲われたときに、全滅してしまう。遺伝子の生き残り戦略として、一定割合が、危険を冒しても、新天地を見つけたくなるように、遺伝子がプログラムされているのだろう。

 本論は、この、人間が「危険に対して、どういう行動をとるかということまで遺伝子に影響されるのだ」という事実からヒントを得て、それを端緒にして、政治家の資質について考えたというもの。

 ここから以下の考察するポイントについて、本当に遺伝子が関係している、という科学的エビデンスは今のところ、ない。私の妄想、想像、仮説である。「エビデンスはあるのか」攻撃が得意な方。すみません。初めに謝っておきます。エビデンスはありません。妄想語り、始めます。

 今まで、倫理的判断とか、人格とか、そういうものと考えられてきたことの根底には、上の「冒険的遺伝子」のような、なんらか、生物学的根拠があるのでは、というのが、仮説①。

 遺伝子の話だけではなく、もうすこし人間が社会集団をつくるようになったときの、いわば「文化的遺伝子」的特質かもしれない。それが仮説②そういうことについては、遺伝子の研究よりも、文化人類学の研究の領域。

 「現代人が倫理的な問題だと思っていること」→「文化人類学的にみると、倫理的というよりは、もう少し、原始的段階での人類成立の初期からある、人類生き残りのために獲得された人間の性質なんじゃないの」→「そういうことには、もしかして、遺伝子的な、生物としての特質が反映しているんじゃないの」というのが、本論の基本スタンス。

 たとえば、浮気をする人=倫理的に悪い人、浮気しない人=倫理的に偉い人、というふうに、とりあえず建前では、扱われるけれど、人類が生き残り繁栄するには、一定割合、浮気する人がいた方が有利、ということがあって、そうなっているんじゃないの。

 つまり遺伝子レベルで、浮気しやすい人と、しにくい人がいるんじゃないの。(なんか昔の竹内久美子みたいな話だが、)浮気について、いくつかの遺伝子タイプあって、それが、ばらついていることで、トータルとして、人類は生き残り可能性が高くなるようになっているのではないか。

 文化人類学的知見でも、親族集団で暮らしていると、近親婚のリスクがどんどん高くなるから、近親婚がタブー化される。と、婚姻は、他の集団との間で行われるようになるが、そういう他部族他集団は、時には敵対戦闘をするし、時には、なんらかそれぞれの生産物特産物を交換する相手でもある。定期的にそのような交流をする部族間の婚姻もある。

 生物学に戻れば。この前の未来のスペシャル、知床沖で年一回集まってお見合いするシャチの群れ、というのもあったから、人間に限らない、生物的に遺伝子的にプログラムされた行動だと思うのだよな。

 近親婚による遺伝子の煮詰まりを避けて、リフレッシュするにはいくつか方法があって。
①戦闘で、女性を略奪する形での、遺伝子リフレッシュもあれば、
②物品交換儀式に伴う饗応、宴会、お祭り騒ぎ(飲食供応、薬物回し飲み、踊りなど)の後の乱交、みたいな形もあり、
③変わったものでは、稀人・客人が村に来た時に、歓待する。その歓待のひとつの定番メニューとして、奥さんを貸して、旅人客人を性的にもてなす。旦那さんも混じって3Pする、というのもある。現代人的にはビックリするが、わりと世界のいろいろな部族で定番メニューとしてある。未開部族だけでなく、北欧バイキングなんかにも、かつてそういう伝統はあったらしい。

 ということで言うと、つまり、「浮気=倫理的に悪」なんていうのは、ある特定の時代における特殊価値観であって、生物学的に「近親婚による遺伝子の煮詰まり状態弊害を避ける」ために、異なる遺伝子を取り入れるによう、遺伝子レベルなのか、人類社会のわりと初期からの文化的遺伝子なのかは不明だが、「祭りの後の乱交」とか「珍しい客人と奥さん浮気」というのは、人類史的にいうと、普通のこととしていろんな部族に、世界中で見られるのである。。

 あ、そして、今日は安倍首相の話なので、浮気の話が本題ではない。安倍首相と昭恵夫妻の夫婦関係とか、浮気してるしてない?なんて別にそれを論じようとはしていません。

 なかなか、本当に語りたいことにたどり着かないな。

 つまり、まず、私が設定したい仮説は、現代の社会的通念としては、倫理的善悪とか、人格的高潔さとかとして語られることには、もっと深いレベルの理由がある。
①いちばん根底には遺伝子的ばらつきタイプが存在し
②それによる、原始部族時代からの人間行動の幅があり、
 そのことをいったん、生物学的、または人類学的事実として認めると、現代の政治的課題とか、政治家に求められる特質というのも、新しい視点で考えられるのではないか、ということを、やってみているわけです。

 さてまた、話はあらぬ方に飛ぶが、安倍首相以上に、私は全く政治家に向いていないと、自覚している。それは、「危険に対して臆病で、常に危険からは、誰よりも早く、自分と家族だけ助かるように逃げるタイプの人間だ」と自分のことを分かっているから。こういう卑怯者は、政治家には向かないのである。

 そのことを強く自覚したのが、東日本大震災の、原発事故のとき。「放射性物質、首都圏まで3/15には一回、大量に飛んできている。やばい」という情報を集めた私は、(「東京におれは残るわ」と言った長男以外、)妻と子供五人をステップワゴンに乗っけて、3/16に京都に避難した。

 哲学者、東浩紀氏も、このとき、同じタイミングで、子どもを連れて静岡まで逃げている。(ことで批判されたりした。)
 電通の後輩で仕事仲間だった、今はアートの世界で活躍中のAさんも、この時、京都まで家族を連れて避難していた。と、後で告白しあった。

 自慢じゃないが、特徴的なこととして、この三人、みんな、東大卒で、全員、知能指数はメンサ会員レベルを軽く超えていると思う。情報収集も、情報処理も、人一倍というか、普通の人の百倍くらい早いタイプ。そして、「福島の人を助けに行こう」という方向に、行動するよりも「家族を守るために、西に逃げよう」と考えるタイプ。そういう行動力はある。

 僕も東浩紀氏もAさんも、社会問題への意識は、ものすごく高い。行動力もある。ただし、「自分と家族を守る」方向の行動力。

 ナチスがユダヤ人を迫害したときも、「やばい、速攻でアメリカに亡命しよう」と、早逃げして命拾いしたユダヤ人インテリはたくさんいて、おそらくそういう人の中には、僕や東さんや荒木さんのようなタイプの人もいたのだと思う。

 ユダヤ人じゃないけれど、ドゴールだって、イギリスに逃げ出て亡命政権を作って、そこから指示出していたわけで、多くのインテリや政治指導者がイギリスやアメリカに早逃げしている。ドイツ支配下にとどまってパルチザンとして戦った人間ばかりではない。そうやって人間集団は生き残りを図るのである。

 その反対に、危機の時には、危機の中心に向かって、とにかく走っていくタイプの人がいる。震災と福島の事故の時、僕の親友女友達の旦那さんに、いきなりトラックに支援物資を積んで、被災地まで走った人がいた。
「ああ、危機のときにどっち向いて走るのか、人によって、正反対だなあ」と思った。

 僕に連れられて逃げた子供の中で、当時大学二年生の次男だけは、京都で、ずっとひどく不機嫌で、西に逃げてきたことが嫌だったよう。彼は後に、自衛隊に入った。彼は被災地に走りたい、危機の中心に向けて走りたいベクトルの人間だったのだと思う。

 このことを倫理的な問題として、「俺って卑怯者だな」と考えたり「いや、でもあの状況で、幼い子たちを、放射能の危機にさらして首都圏に留まるという判断は、あの時点では絶対なかった」と思ったり、いろいろ考えたが。しかし、そのとき、何か、頭で試行して判断したかというと、そういうことはなくて、本当に、動物として。「ここは逃げる」という、本能的な行動だったと思う。

 人間集団が巨大な危機に襲われたときに、どっち向いて走るか、というのは、その人間の人間性とか倫理とか言うこととして考えがちなのだが、どうも、それって、動物的反応な感じがする、というのが、この論考のそもそものベースになっている。つまり、全員がとどまっても、全員が危機に向けて走っても、全員が逃げ出しても、それは人類全体の生き残り戦略としては不適切で、震災時、「北に、被災地に走る人、東京に留まる人、西に逃げる人」に分散するように、遺伝子レベルで振り分けられているように思う。ナチスの迫害へのユダヤ人の反応も、地下に潜って戦った人、ただとどまった人、素早く逃げた人、がいた。倫理的問題として語られるけれど、それが分散するようになっているのだと思う。

 で、もし、この話を倫理的、人格的な話として語るならば、「人間の大きさ」という話のような気もする。危機を前にしたときに、僕にとって「自分」というのは「僕と妻と子供たち」であって、僕が守るべきはこの家族であって、それを危険にさらして、僕が福島に、被災地に走るということは、ひとっかけらも考えなかった。僕の「自分」のサイズは、家族サイズであって、それより大きくない。それは今も変わらない。僕は人間が小さい。人間のサイズというのが、大中小、いろいろあるのである。

 さて、安倍首相の話にやっとなるけれど、政治家っていうのは、頭がいい悪いとかいうよりも、「人間がどこまで大きいか」というのが、まず第一条件なんじゃないかと思う。そして「危機が起きたら、危機に向かって自然に走る」方向性に、遺伝子がプログラムされている人間じゃないと、いかんのではないかと思う。安倍さんて、そういう人なのかな。どうなんだ。というのが、今日、話したいことの半分。まだ半分。

 次の半分は、「友と敵」という視点での、「自分の大きさ」の話。長くなるから、この辺で、お茶でも飲んで、後半戦備えてね。

 政治の本質は「友敵関係」だ、と書いたのはカール・シュミットというドイツの法哲学者。ナ チスの政治理論の起源になった人だと言われている。ものすごく頭のいい人で、日本で歴史上最も頭がいい人候補の、和仁陽という伝説の天才(僕の高校の同期生で、やはり同期生の、茂木健一郎の本にも、到底かなわない天才として登場する)の初めに書いた論文、出版された本も、カール・シュミットの研究だった。人間は本質的に友と敵に分かれる。手っ取り早く、ウィキペディアから友敵関係、引用します。「シュミットはこの友敵の対立を発展させるために敵の概念を規定している。敵とは実存的な他者・異質者であり、単なる競争や討論の相手は決して敵ではありえない。敵は自己の存在を否定するものであり、逆に友は自己の存在を肯定して敵と争うものである。この友敵の区別とは他者が極限まで自己の存在のあり方に対する敵対性や同質性を強めることで政治化していく。」

 でね、政治の本質が「友敵関係」だ、という人は、逆説的だけれど、現代においては、政治家になってはいけない人だと思うわけ。

 シュミットがナチスを準備してしまったように、「友敵関係」は、国内的には独裁を準備するし、差別を助長するし、対外的には、「敵」と規定した集団を戦争で殲滅してしまう。相手を存在の根底まで、徹底的に否定してしまうのだと思うわけ。

 で、突然、さっきの文化人類学の、浮気の、遺伝子リフレッシュ法の話に戻るのだけれど。

 文化人類学で、未開部族の研究の中で、たいていいちばん面白いのは、異なる集団と、どういうふうに交流するか、のところなんだよね。

 敵かもしれない。殺し合いになるかもしれない。でも、何か、いいものを持っていて、うまいこと交換できるかもしれない。結婚相手を、お互いに交換できるかもしれない。でも、敵かもしれない。殺し合いになるかもしれない。男を殺しちゃって、女をさらってきたら、それはそれでいいかもしれない。いや、お互いに持っていないものを交換して、女も交換して、定期的にそういうことができたらいいかもしれない。でも、相手がずるいやつかもしれない。騙されるかもしれない。相手が攻撃してくるかもしれない。

 この緊張関係を、どういう風に乗り越えて、物の交換をしたり、結婚相手を見つけ合ったりするかというのが、本当に面白いわけ。

 でね。最終的に「敵だから、信用できないから、殺し合いするしかない」と思うタイプと、「なんとか一緒に飯食って、酒のんで、たばこやら怪しいなんかでハイになって、踊って、乱交になっちゃう方が、いいじゃん。」と思うタイプと、いると思うわけ。混在するのだと思う。遺伝子タイプとして。

 これについてね「倫理的善悪とか優劣」と考えるのは、いったんやめて、人類の生き残り戦略として、どっちかになりやすい遺伝子タイプが、分かれている、と考えたらどうだろう、というのが、後半戦で考えたい、主張したいことなわけ。もちろん、1人の人間の中で、状況によって、「敵だ殺してしまえ」と「仲良くなっちゃえ」は混在するのだけれど、どちらに振れやすいか、ということに関わる遺伝子、などというものもあるのかもしれない。生物学的遺伝子ではなくても、文化的遺伝子として、どちらかが強く出やすい傾向というのは、人によって違うのではないかしら。

 嫌韓・嫌中みたいにすぐなる人と、まったくならない人が、どういうわけだが、日本にはいる。日本だけではなくて、世界中に、「自分とはいろいろ違う集団」に対して、「違うんだけど、なんとなく仲良くやっていける」タイプの人と、「理由はよくわからんが、むかつく。もう、敵として、憎んで攻撃して、なんなら殺してしまえっ」てならずにはいられない人が、どういうわけだか知らないが、どうしてもいる。
 

 アメリカのブラックライブズマター運動周辺でも思うことだが、そこにおいても、黒人とともにデモに参加する白人の人たちもいれば、問題になればなるほど、黒人を暴力的に攻撃しようとする白人もいる。いや、黒人の中でも、「友敵問題」として、白人を敵視し攻撃する形で運動を先鋭化しようとする人と、そうでない人がいる。

 教育の問題とか、知性の問題とか、それだけとはどうしても思えない。普段は表面化しなくても、原発事故の時に、僕が本能的に西に逃げたように、何か、人種民族的対立が先鋭化するような局面に立った時に、「それでも仲良くしよう」が勝つ人と、「敵だから殺してしまえ」が勝つ人というのは、動物としての人類だったり、未開原始社会形成のころからの集団的記憶による文化的遺伝子において蓄積された「他者集団と、どう対峙するか」の、パターンとして、深く深く刻みつけられたもののように思う。

 だから仕方ない、ということを言おうとしているのではなくて。克服すべき問題は、それくらい根深いということとして、書いています。

 だからこそ、現代の政治家には、その対立の決定的な瞬間に「融和する方を選ぶタイプの人」じゃなきゃ、いけないんじゃないか。そこのところこそ、現代の政治家にとって、政治家を選ぶときに、いちばん、何よりも大事なことなんじゃないか、ということを書きたいわけ。

 平時、口先では、なんとでも言えるのだけれど、いちばんきつく、そういう「友と敵」の問題が先鋭化した瞬間に、それでも仲よくしようという方に心と言葉と体が動くかどうか。そういうことが、政治家を選ぶ特に、最も大事な基準ではないかと思う。たとえ、一時、戦争を選択せざるを得ないとしても、なんだな。戦争を選んだとしても、できるだけ早く、停戦しようとする。相手を、市民を、傷つけることはしないようにする。心の基本傾向、生き物としての本能的反射的判断が、「融和」側の人間であることが、大切だと思う。

 別に安倍首相が、選挙演説中にやじられて「ああいう人たちに負けるわけにはいかないんです。」と、自分と意見が違う国民を「敵」として認識するような人だから、政治家として失格だ、などということだけを批判するつもりはない。

 政治が「友敵関係だ」というのは、ひとつの真実だと思うから、政治的対決が、一面そのようなものであることは当然なのだ。しかし、いったん、国の指導者となったら、「自分の大きさ、ひろがり」を、少なくとも「国民全部」を包むスケール迄大きくしようと努力しないといけないのだと思う。自分に賛同してくれる人だけが「国民」で、そうでない人は「非国民」というような価値観の人は、政治家になるべきではない。

 自分といちばん境遇が遠い人にまで、「自分の一部」として共感を、思わず助けようと一歩踏み出るような共感を持つ、人間の大きさを持っている人を政治家に選ぶべきだと思う。

 安倍さんが超大金持ちで、何代も続けて首相を出した親戚縁戚中総理大臣だらけであっても、別にいい。その家系に育つ中で、国民の、いちばん貧しい弱い、遠い人、沖縄の隅から北海道のアイヌから、日本国内に暮らす在日外国人や、性的に様々に多様な人や、そういう人も、自分に含まれると感じるような政治的包容力、人間的大きさを、そういう家系に育つ中で身に着けているのだとしたら、それは政治家に、首相にふさわしいだろう。

 そういう人だっけ。安倍さんて。

 反対に、貧しい人にしか共感できない野党政治家がいるとしたら、僕はそういう人も政治家に向かないと思う。

 僕自身も、金持ちが苦手だ。大学時代、仲の良かった友人に、大変なお金持ちのボンボンがいた。彼が自然に恋愛して結婚した相手も、これまた有名な大企業の社長令嬢だった。彼も奥さんもとても自然な良い人なのだけれど、僕は。お金持ちといると、どうふるまっていいのかわからなくて、緊張してしまう。苦手なのだ。友達が彼女のことを紹介してくれて、一緒にご飯食べた後で、後日、「ごめん、僕、お金持ちは、悪いけれど、苦手なんだ」と彼に言ったことがある。彼は悲しそうに「金持ちの家に生まれることも、選べないから」と言われた。

 「上級国民」を攻撃することが野党の政治家として当然だ、という論陣を張られると、この人たちは「友敵」関係として、金持ちは無条件に「敵」認定で、「敵」にはどれだけ無慈悲でもいい、と思っているんだなあ、と思う。それでいいのかなあ。

 僕は金持ちではないし、金持ちの家には育たなかったけれど、官僚の家庭に育ったから、貧しい人の味方野党の認定では「上級国民」側の悪人になってしまうだろう。それに、今や日本中から大バッシングの電通出身の、広告屋として生きてきた僕は、今や、大バッシングの対象だろう。

 お前のような恵まれた立場の人間がリベラルを気取るのを「世田谷自然サヨク」というのだ、と言われる。たしかにそうなのだろう。与党側から見ても、リベラル貧しい弱者味方政党から見ても、僕はどちらから見ても「敵」に見えるのだろう。

 あ、僕のことはどうでもいいや。

 この論の結論として、安倍首相は、本当に、史上最長期間、首相になるにふさわしい人なのか。正直、僕は、そう思わない。その理由、思うことを、まとめておこうと思う。(ここまで読んできてもらえば、頭が悪いからだとか、嘘つきだとか、何か犯罪をしたとか、身内に利益を回したとか、そういう、世間やマスメディアで語っているような、そういう次元の理由でないことは、分かってもらえると思う。)

 僕は、首相としてではないとしたら、人間として、安倍首相のような人がいるのは、ごく自然で普通のことだと思う。誰一人として、生まれや育ちや性格が人とずいぶん違うからと言って、そのこと自体を批判されたり、攻撃されたりすべきでないと思う。

 危機から反射的に逃げるタイプ。人間が小さいタイプ、最後のところで、「敵とは戦うしかない」と思ってしまうタイプ。立派とは言えないけれど、全部、人類が生き残るための反応として、遺伝子なのか文化的遺伝子なのかのバリエーションとして「そういう組み合わせの遺伝子の人」というのは、一定割合、いるのである。

 こうやって見ると、僕と安倍首相は、全然違うタイプのようで、かなり似ている。(他者集団に対して、戦闘タイプか融和タイプかだけは、僕は融和タイプで、安倍さんとは違うのではないかと、自分では思っている。が、極限状態に置かれたことはないから、本当のところは分からない。)

 安倍首相をあしざまに友人たちが批判するのを聞いていると、実は、僕は、自分の中のある部分を批判されているようで、居心地が悪くなる。心の底で、そう感じていたのかもしれない。

 しかし、こと、首相になるべき人間が、そういう人間でいいかと言われると、良くないと思う。僕が政治についていろいろ考えても、政治家になろうとは露ほども考えないのも、「政治家たるもの」の条件に、僕が全く合わないからで、その基準で安倍首相を見ても、やはり、全く政治家に向いていないと思うのだ。

 首相というのは、危機に向けて、誰よりも早く、危機の中心に向けて走るような人間であるべきだと思う。

 人間が大きく、自分とは正反対の境遇にある人のことまで、「自分のこと」と共感できる、だれよりも大きい人間が、首相になるべきだと思う。少なくとも、そうなろうと、自分を拡げていく姿勢のある人間が、首相になるべきだと思う。

 そして、価値観の異なる他者集団を前にしたときに、なんとか理解し合い、対話の道を探り、長く続く良い関係を築く方を選ぼうとする人物が、首相になるべきだと思う。価値観の違う人間との対話を拒否して、いきなり敵意をむき出しにするような人間は、一国のリーダーになるべきではない。

 そういう視点で見た時に、史上最長の在任記録を作るほど、安倍首相に、その適性があるとは、僕には、どうしても思えないのである


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?