イアン・マキューアン『初夜』の感想なのに、なぜか途中からナルニア国物語、瀬田貞二訳の素晴らしさについて

『初夜』 (新潮クレスト・ブックス) 単行本 – 2009/11/27
イアン・マキューアン (著), 村松 潔 (翻訳)』

Amazon内容紹介
「歴史学者を目指すエドワードと若きバイオリニストのフローレンスは、結婚式をつつがなく終え、風光明媚なチェジル・ビーチ沿いのホテルにチェックインする。初夜の興奮と歓喜。そしてこみ上げる不安―。二人の運命を決定的に変えた一夜の一部始終を、細密画のような鮮明さで描き出す、優美で残酷な、異色の恋愛小説。」

ここから、僕の感想。
 いつものことながら、知的なのに切ない、マキューアンらしい小説。カバーに引用されているTimes書評では「最近の長編小説が交響曲であるとすらなら、この作品は室内楽曲」と、作品内容にひっかけて上手いこと言っているが、小説としても短いし、集中して描かれている中心シーンは「初夜」の数時間だけれど、しかしながら、主人公の人生全体を描く腕前は、流石の極み。

話が、この本から大きく脱線しますが、翻訳小説における翻訳者について、ちょっと書きます。
 マキューアンもジョンバンヴィルも、ほぼ村松潔さんという方が訳しているのだが、この二人の小説家に対する私の「最高に知的で、世にも美しい文章を書く作家」という印象の何割かは、村松さんの腕前によるものなのだろうなあ、と改めて感心する次第。
 私のように、翻訳でしか海外の小説を読めない(辞書引きながら、年に一冊くらいは挑戦するけれど、時間がかかる割に実り少ないので、やはり翻訳で、日本語で読む方が楽しい。)ただの読書好きにとっては、翻訳者というのは、ほんとうにありがたい存在なのだよな。最近の読書生活の楽しさの何割かは、村松潔さんのおかげです感謝。

 同じ本でいくつか翻訳がある場合、「この翻訳者の方が好き」というのは絶対ある。
『グレートギャツビー』やサリンジャーのグラースサーガ『フラニーとゾーイー』は、村上春樹さんも訳してくれているけれど、どうしても野崎孝さんの訳の方が、好きなんだよなあ。若い時から何十回も、下手すると百回以上も読んでいるからだと思うけれど。それぞれの登場人物らしい言い回し、みたいなものが、読みなれた訳で心に定着してしまっているから。たとえ、新しい訳の方が文法的には正しかったりするのだろうけれど、でもね、アニメで、何十年も聞きなれていたキャラクターの声優さんが亡くなって、急に新しい声になる、くらいの違和感がある。

 レヴィナスについてしむちょんと話している中で、『ナルニア国物語』の話になって、(この飛躍とつながりは、結構重大な発見を含むので、そのうち、きちんと書こうと思っているのだが)、しむちょんが「光文社古典新訳文庫からも出ているね」っていうコメントが来た。そのときは意見はしなかったんだけれど、やはりナルニアは、瀬田貞二さんの訳でないと、ナルニア国物語では無いんだよなあ。瀬田貞二さんは、ナルニアも、指輪物語も訳している、昭和40年代くらいの訳だから、日本語としてもとんでもなく古臭い、こんな言い方、いまどきの子には意味わからないよねっていう言い回しもたくさんでてくるのだけれど、でもねえ、瀬田貞二さんのナルニア国物語は、名訳なんですよ。
 
 脱線からさらに脱線して、ナルニア国物語の瀬田貞二役の素晴らしさ、についてさらに書いてしまうと、 
そもそも、固有名詞や、人の名前も、結構、日本語になおしてしまうわけ。瀬田貞二さんは。東の海に大航海に行く船、:書名原題はThe Voyage of the Dawn Treader、船の名前はhe Dawn Treaderなわけです。tread、クルマのトレッド、ですよね。Dawn、夜明けにtread踏み入っていく、漕ぎ出していくっていうかんじ。夜明けの方に踏み入っていく。それをね、「朝びらき丸」って訳して名前にするわけ。
 この「朝びらき」という言葉については、長男がこの前教えてくれて、万葉集「あさびらき漕ぎ出て来れば武庫の浦の汐干の潟に田鶴が声すも」「世間(よのなか)を何に譬(たと)へむ朝びらき漕(こ)ぎ去(い)にし船の跡(あと)なきがごと」など和歌の「漕ぎ出る」にかかる枕詞なわけですよ。つまり、夜明けに向けて漕ぎ出していく、という船に「朝びらき丸」とつけることの、なんというか、教養と、絵が見えてくるような、ネーミングの素晴らしさ。
 
ナルニア国物語、全七巻の中でも、僕の最も好きな登場人物(っていっても人ではないのだけれど)原著ではPuddleglumというんですね。北の沼地地帯にすむ、手足の長い、やせっぽちのカエルが直立して人間になったような、そういう生き物なんですよ。この人たち、種族としてはmarsh-wiggle「沼地をうごめく」もの、というのだけれど。パドルクラムという名前は、分解すれば、Puddle+glumは泥水+陰気、という意味なわけですが、瀬田貞二訳では「沼人の、泥足にがえもん」と名付けられているわけです。
この、陰気ですぐ人の気をくじくようなネガティブなことしか言わない泥足にがえもんが、クライマックスで、涙なしには読めないような勇気を示すんですよ、言葉と、行動と、その両方で。何回何十回何百回読んでも、読むたびに泣く。誇張じゃなく、回数も。

 古くからのナルニアファンにとっては、「朝びらき丸」も「泥足にがえもん」も、もう、その名前でしかありえないので、新訳版が、英語そのまんま固有名詞カタカナ表記で書かれていると、もう、全然、頭に入ってこないんですよ。
 なんといっても瀬田貞二訳、ナルニア国物語は、人生でいちばん繰り返し読んだ本なので。もう48年間くらい読んでいる。シリーズの中で特に好きだった『朝びらき丸、東の海へ』や、泥足にがえもんが登場する『銀のいす』の場合、自分が子供のころと子育て期には、年に20回は読んでいて、、そうでない期間も年に各巻2回は読み返していると思うから、20×20+2×25=450。そのうち、30回くらいは黙読ではなく、子供への読み聞かせ音読だったりするので、「ナルニア国物語を読んだ」ではなく、「ナルニア国に行ったことがある」「泥足にがえもんにも会ったことがある」という感覚なの。そのナルニア国、泥足にがえもんというのは、瀬田貞二役の、日本語の世界なんです。翻訳者というのは、それくらい重要。

 翻訳で小説を読むっていうのは、そういう、不思議な体験なんですよね。

 やっと話がもとに戻った。

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