『フランス軍中尉の女』ジョン・ファウルズを読んで。一筋縄では、いきません。そうなるの、え、ならんのかーい。

『フランス軍中尉の女』ジョン・ファウルズ

 中学同級生のしむちょんに、Facebookで再会したのが、もう8年位前かしら。彼のFacebookのプロフィールの好きな小説・小説家蘭をこっそり見たら、僕の知らない海外の作家の本がいっぱい書いてあって、すごい、なんだなんだとなって、しむちょんの好きな作家の本をおいかけようと、いっちばん初めに読んだのが、このジョン・ファウルズの『魔術師』だった。

 のだが、これがまあ、不思議というか難解というか、現実と幻想がいったれきたりするのかと思いきや、そういう幻想小説でもなく、第二次大戦の記憶とつながる闇を描いた小説、のようでもあり、しかし作者の分身と思しきモテ男主人公の露悪的恋愛遍歴小説のようでもあり、うーん、どう考えたらいいんだろう。ということで、ファウルズさんとはそれいらい疎遠になっていたのだが、最近、しむちょんがこの本『フランス軍中尉の女』を読んだ、と投稿していたので、僕も読んでみた。

舞台はヴィクトリア朝中期。1867年、ということは、日本がちょうど明治維新。このヴィクトリア朝中期のイギリスというのは、産業革命後の大英帝国の発展、ダーウィンの進化論、マルクスの資本論、文学も絵画も花開き。女性参政権が議論されたりという時代だったりする。

『ジェーン・エア』と『嵐が丘』のブロンテ姉妹の作品が刊行されたのが1847年だから、その20年後の時代の話なわけだ。

そういう時代の「女性小説」のような形を取りながら、しかし、1967年、そのちょうど100年後の作者が、100年後・現代の文学者小説家思想家として、小説の創作意識について語ったり、当時の社会・風俗・思想・文化について語ったりしながら、小説は進むのである。男女の衣装ファッションについてもとても細かく描写されていて、それが物語の中でとても重要な役割をしたりする。あるいは、舞台となるイギリスの南西海岸沿いの自然、断崖とか海岸とか森とか、そういうのも、物語にとても大きな要素となる。

ということで、実は、グーグルアースでその地の自然景観を見てみたり、Wikipediaで当時のファッションの流行、衣装がどんなものだったたのかを調べてみたり、主人公チャールズの婚約者女性が「この画家のこんな絵の女性のような顔の形」なんてあるのを、その絵を調べてみたりと、「小説はあくまで文章から読み取るものがすべて」などと言っていられない、教養が無いから分からない事は、調べながら読むぞ、というなりふり構わぬ態度で読んでいったのでした。

話は飛ぶが、『嵐が丘』については妙な思い出があって、私の母の愛読書だった、ということを小学生くらいのころから聞かされていて、家に、たしか文庫本だと思うけれど、本棚にあって、そんなに言うなら仕方がない、と、小学校の高学年くらいから中学入りたてくらいの時に読んでみようとした記憶がある。形の上では、読み切った気がする。しかし、そんなガキンチョに、大人のイギリスの、わけわからん恋愛なんてひとっかけらも理解できなかったので、とにかく「母親の愛読するようなイギリスの古臭い恋愛小説なんていうのは、とにかく、つまらん」と思って、それ以来、そのへんの小説というのは、一切、読んで来なかったのである。

だから、この小説を読み始めてすぐに、「やばい、そのへんの時代と設定の小説だ」と思ったのだが、さっきも書いた通り、それを現代の作家が相対化したり俯瞰したり解説したりしながら書く、という、かなり実験総合小説のようなつくりなので、それに、僕もすでに56歳の人生経験を積んだので、ようやく、そういう小説も楽しめるようになったわけであった。

『魔術師』もそうだったけれど、「謎が謎を呼ぶ」展開なのだが、最後、すっきり「謎がとけたー」となるかというと、なりません。そこまできて、急に話がややこしい議論にはいって、もつれてくる。理解するのが難しくなってくる。なんだ、メロドラマたと思って読んでいたら(その展開として、強烈に面白いのだが)、ややこしいぞ、難しいぞ、そう『魔術師』も、そのパターンだった、ファウルズさんのクセなのね、という感じで手ごわい小説です。

この小説を原作とした映画が有名ですが、そういうややこしい小説なので、そのまんま映画にするわけにもいかなかったのを、脚本家が大胆に映画用のまったく新しい枠組みに組み替えたり追加したりして映画にしたそうです。見てないけれど。

夏目漱石が英国留学したのは、1900年かな、ヴィクトリア朝の最末期ですね。だから、このヴィクトリア朝文化が全部成熟しきったところに、後進国の留学生としてロンドンに行って、ショックでダメになって帰ってきたわけです。なるほどなあ、ヴィクトリア朝のイギリスというのは、成熟度合いも変化の速度も、明らかに世界史的に見ても、ものすごい時代で、それは漱石さんもダメになるだろう、ということも、この小説を読むと納得できたりします。国文学科で夏目漱石研究する人は、この本、読んだ方がいいかもしれないなあ、などと思いました。大学ゼミが当時の漱石研究の権威の三好先生という方の、漱石ゼミだったんですよ、僕。真面目な学生じゃなかったけど。

 小説の話に戻って、主人公チャールズは、貴族階級、婚約者は勃興する商人の富豪の娘、「中尉の女」謎の主人公女性は、小作人の娘ながら、教育を受けた女性、重要な脇役の主人公と婚約者の従者、サムとメアリは労働者階級だが、単なる従者女中でいるつもりはない、上昇志向を持った新しいタイプの人物と、当時のイギリスの様々な階級の人、すべてが、いきいきと描かれていて、それはもう本当に面白い。階級的な限界や特徴を持ちながら、誰もが時代のダイナミズムの中で、それを超えようと動いていく人物として造形され、小説の中で、生きた人物として作者の統御を超えてストーリーを動かしていく。その「小説を創作する」ダイナミズムについて、おりおり、作者が登場しては「さて、ここからどうしようかな」「こうなる」「いや、じつはそうならない」みたいなことを何度も繰り返します。「そうなるんかい、え、ならんのかーい」とツッコミを入れながら、読む、という感じになります。

 そんなわけで、サクサクっと「謎がでてくる、とける」とか、「男と女が、なんだかんだで、くっくつ」みたいな、単純な娯楽ラブサスペンス、なんかではまったくないし、単なる「正統派・時代ものの大河ロマンス小説」なんかでもありません。「実験的総合小説」です。噛み応えある小説好きにはお勧めです。
 ちなみに、Amazonのレビューでは、評論家の小谷野敦(大学の語学クラスの一年後輩らしいのだが記憶にない)が、なんと、星一つの低評価。学生時代、英語で読まされて、ポストモダンのややこしい小説、ややこしくてつまらーん、と思ったようです。気持ちはわかる。しかし、今の時代、大人になって読むと、非常に味わい深いというか、楽しみどころ満載の小説でした。

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