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「虎に翼」を見ていて仕事時代のことを思い出した隠居老人の昔ばなし。「お言葉ですが、問題は、職員一人の移動で痛手を負うような組織形態です」という桂場人事局長の発言に思うことつれづれ。

 先日(7/9)の「虎に翼」を見ていて、仕事時代に感じていたモヤモヤというか、なぜ完全に仕事をやめて隠居をするに至ったかについて、いろいろ思い出すことがあったので、なんなとくつれづれ書いていく。ドラマの本筋とは関係ない話です。ドラマの感想文ではありません。僕の、老人の思い出話。

 昨日(7月9日)のドラマ、寅子は急に、新潟地家裁への転勤が決まる。本人が知らされる前に上司の多岐川が知って、多岐川は激怒。転勤を決めたのはラジオ放送出演時に、寅子にメンツをつぶされた長官だろうと、長官のところに怒鳴り込む。多岐川は「彼女が移動したら大きな痛手だ」と、そこにいた人事局長・桂場(松山ケンイチ)に食ってかかるが、桂場は「お言葉ですが、問題は、職員一人の移動で痛手を負うような組織形態です」と取り合わない。

 人が変わっても回る組織づくりが大事で、一人の人間の、属人的能力に頼っているような組織は組織として失格、という考え方はいまどきの企業では常識化している。

 ので若い人たちはこの場面、「桂場の言うことが当然だ」と聞いたかもしれないが、この考え方が日本の企業に浸透したのはそんなに古いことではないと思う。もちろん、数年ごとのローテーション、転勤や複数部署を経験させるキャリアプランを前提とした官公庁や大企業ではこういう考え方は早くから浸透していたかもしれないが(桂場の言う理由の一つは、こういうローテーションを寅子もすべきだ、という正論でもあった)、しかし、業種職種によっては、高度成長期からバブル期あたり、いや、2000年代前半ぐらいまでは「俺がいなければこの職場は回らない」という気負いとプライドの「職場のエース」がいて、それなのに突然、移動を申し渡されれば「なぜおれが。俺がいなくては仕事にならないのに」と憤る、やけ酒をあおる、なんていうことはよくあることだった。

 私の生きてきた広告業界というのは、わりと属人的能力に依存して仕事が回ることが多い業界であった。広告クリエーターはもちろんのこと、営業職でも、いったん特定クライアントに気に入られてハマれば、一生、仕事人生のすべてを若い時一担当の立場から局長・役員になるまで、ひとつの企業の担当として仕事人生を終る、という人も少なくなかった。「人生ずっとあのクライアントの担当」というのがプライド、という営業さんというのは、いる。むしろそれは営業としての優秀さの証みたいな雰囲気があった。そういう人には属人的に知識ノウハウ人脈が蓄積され、「その一人を移動させたら仕事が回らなくなる」というのは、リアルに回らなくなる。いや、それでも回るは回るのだが、その担当が外れたために、競争する代理店に扱いを大幅に取られる危機に直面する、ということはありうる事態であった。

 こういう、「その人がいないとそこの仕事は回らない」というあり方が嫌われるようになったのは、広告業界では、「外資系マネージメントの考え方が、日本の広告主企業にも浸透していったある時代から」ではないかなあ。そんな印象を持っている。

 2000年代に入るくらいから、著名なグローバル企業のグローバル本社でのマネジメント経験者が日本企業に乗り込んできて、日本企業の体質改善をすすめる、ということが起きてきた。有名な個人でいえば、そう、あの人とか。無名の人たちでも、あの有名なグローバル企業のシンガポールなんかでマーケティングやマネジメントのキャリアをスタートした人が、若くして転職してきて、ものすごくいろんな企業に幅広く入って行って、短期で成果を上げては転職キャリアアップしていく、ということが常態化した時代になっていった。

 こういう人たちは、自分のマネジメント能力は特別だが、自分が関わった組織は「属人的能力に頼らずに回る組織に変革する」という、ある種の矛盾に満ちた存在だと思うのだよな。そして組織や仕事のやり方を「自分がいなくても回る」状態にしては、次の職場というか「獲物」「狩場」にステップアップしていくのである。グローバル企業においてトップマネジメントだけが異常に高給なのは「トップマネジメントの能力だけが属人的かつ特殊であり替えが効かないもの」で、それ以外はすべて「替えの効く人員」であるべきであり、それで回る組織、仕組みを作るのが当然、という考え方だからだよな。

 僕はその変化の過渡期に、「フリーランスとして、電通のスタッフとして様々な大企業の広告コミュニケーション・マーケティングチームに参加する」という特異な立場で過ごしたという、世の中にあんまり例のない体験をしたので、その変化を誰よりも強く感じたと思うのである。

 広告の仕事は競合プレゼン(最近はピッチというのかな)が多発する特殊な業界で、勝ち負けがある、常に真剣勝負の場で、そこでは「誰でも回る仕組み」で仕事が流れていく日常業務の論理とは別の力学が働く。勝ち負けはやはり個人の能力に依存する部分が大きい。だから、大きな仕事にフリーランスが加わる機会がありうる。クリエーターだけでなく、戦略プランナーであっても、外部スタッフとして加わわり重宝されることはある。そして、競合に勝った後、日常モードに仕事が移行しても、チームの一員として仕事が続く。私の仕事人生というのは、そうやって回っていたのであった。

 現実の経歴として、私は特定企業の特定商品ブランドについて割と長い期間担当した例が多数ある。中には20年くらいの長きにわたって担当し続けたということがひとつならずある。5年以上続いた仕事というのであれば、数えきれないくらいたくさんあった。

 20年、ひとつの商品ブランドに関わると何が起きるかと言うと、広告主側の担当の方が、初めに出会った時は肩書なしの現場のリーダーか課長さんクラスだったのが、次に出会うときににはマーケティング部長・とか役員一歩手前になり、最後、私のキャリア晩年には社長になっている、という、そういう時間の長さである。

 広告主企業の相手はどんどん偉くなる。広告代理店の人たちも偉くなっていき、若い人が入ってくる。人はどんどん入れ替わる。のだが、私だけ、ずっと同じ仕事をしている。グルイン調査をし、様々なデータ資料を分析し、その結果を広告主や広告代理店や広告クリエーターに報告し、広告案を考えるクリエーターの話し相手をし、広告コミュニケーションについてのプレゼン―ションの戦略、考え方屁理屈を作ってはプレゼンをする。20年もひとつの商品ブランドについてそういうことを同じ立場でやり続けるというのは、大企業の内部の社員では構造的に無理なのである、広告主側であっても、広告代理店側であっても。フリーランスだからそういうことができた。

 当然、知識ノウハウ、そのブランド、その市場の不文律的言語化されていないルール、そういうものが私の個人の中に蓄積されていってしまう。

 もちろん広告主企業側も、こうしたマンネリを嫌って、節目ごとに競合プレゼンを行い、他代理店に扱いを変えようという検討、トライはするのである。しかしまあ広告代理店は、広告表現を考える広告クリエーターを変えることでそうしたことに対応しつつ、マーケティングや戦略部分を新しい広告クリエーターに伝えるという役割で、私はしぶとくチームに残り続けたのだな、長期的に続いた仕事では。

 広告主企業側の広告担当の偉い人が変わった時も、広告代理店の営業担当やクリエーターが変わった時も、「その商品・ブランドの広告コミュニケーション・マーケティングのそれまでの歴史・経緯とルール・現状の課題」みたいなことを、私が引き継ぎ時に新担当に伝える、そういう資料やプレゼンというのを、数限りなくやったことがある。広告主企業内で業務引継ぎはしているだろう。広告代理店がやればいいだろう。ふつうそう思うだろうが、私という「属人的にあまりに長く深く同じことをやり続けた生き字引」みたいなものからも、いちおう話を聞いておこう、ということがたいてい行われたのである。そして聞いて見れば、それは「いや、内部の引継ぎでは認識していなかった事実がたくさんありました」という感想をいただくのである。

 で、ある時期から、そういう戦略引き継ぎプレゼンの相手が「外資グローバル企業から転職してきたマネジメントのプロ」という事態が多発するようになったのである。

 こういう外資出身マネジメントのプロの方は、先に述べたように、仕事のやり方、組織の在り方を「属人的能力頼りからの脱却」するという基本動機を持っているわけだ。

 そうすると、優秀な彼らであるから、私のプレゼンを聞いてまず思うのは、「切るべき存在は、この属人的能力知識と人脈(現社長にまで知られているらしい)の権化のような、この得体のしれない小男だ」となるのだな。明らかに業務プロセスと仕組みを大胆に改革していくのに邪魔である。僕が反対の立場でも、絶対そう思うと思うから、別に恨みはない。

 彼らは非常に人当たりのいい態度で、丁寧に「いままでの経緯はよく分かりました。明解でていねいな資料と説明ありがとうございます」とその場ではにこやかな笑顔でお礼を言うのだが、ほどなくして、その仕事から僕は外されることになる。そういうことが、ほんとうに、繰り返し起きたのである。

 もちろん年齢による能力の衰えもあったわけだが、「属人的能力を売り物にしてフリーランスで仕事をする」という存在自体が、時代の価値観とズレたのである。属人能力を売り物にするなら、MBAを取って外資企業で マネジメントとしてのキャリアを積み、日本企業に乗り込んで短期間でキャリアアップを図る、という生き方を選択しなければだめだったのだが、そういう能力適性は無かったんだよな。英語もできないし。

 そんなことを桂場局長の「お言葉ですが、問題は、職員一人の移動で痛手を負うような組織形態です」の言葉であらためて思い返した。

 寅子も「自分の能力でここまで来た。自分でなければ」という自信とプライドで、家庭を顧みず突っ走っているのである。どうしたって仕事に全振りの生き方になるのである。その姿は、若い時の僕もそうだったよなあ、周囲にも家族にも申し訳なかったなあ。

 たしかに男女平等で女性の社会進出で少子化対策で子育てや育児も家事負担も男女平等にしていこうとすれば、「問題は、職員一人の移動で痛手を負うような組織形態です」は正しい。そうでなくすれば、育児との両立もしやすくなる。

 のだけれど、しかしまた、ひとつの仕事に人生をかけて、「自分がいなければこの仕事は回らない」というプライドをもって取り組まなければ成し得ない仕事、というのもあるのではないの。ということを時代遅れの老人は思う。

将来のこと未来のことはさておき、女性が、先駆者として男性社会の壁を破ろうとしたときには。そういう気持ちでないと突破できないいろいろな壁というのが、あったと思うのである。

 僕よりひとつ下の学年というのは、雇用機会均等法が施行された年で、そこで総合職として採用された女性というのは、会社社会の仕組みか全くもって男社会のままの中で、働く人の価値観も古くさい価値観のまんまの中で、寅子のように、そこに過剰適応して、がんばって生きて来たんだよなあと思う。いろんな葛藤が、問題が先例のない「一期生」であり、自分が挫折したら後続女性たちに申し訳ないという寅子的気持ちをもっていた人も多かったのではないかなあ。

 なんか、いまどきの価値観からすれば、今週の寅子と職場の人たちのやりとり、それは当然のことで、寅子だめじゃん、てなると思うけれど、僕は、昔のことを思い出してまあいろいろ複雑な思いになったのである。



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