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『夜のみだら鳥』ドノソ(著) 鼓直(訳) 『百年の孤独』文庫発売時期に、あっちが「陽」なら(わやくちゃだけれど読んでいると楽しい気分になるんだよな、あれは)こっちは「陰」の極みのようなラテンアメリカ小説の名作らしいので、読んだら、ほんとに鬱々としてしまいました。

『夜のみだら鳥』
ドノソ(著) 鼓直(訳)
 集英社 ラテンアメリカの文学11 1984年7月刊

Amazon内容紹介が無いので、本の帯

すべての人間は、狼が吠え、夜のみだらな鳥が鳴く
蒼然たる森を心に持っている


鬼才、ドノソが描くゴシックロマン

本の帯

ここから僕の感想

 七月のはじめにガルシア=マルケスの『百年の孤独』文庫が出版されてTwitterでも大騒ぎになったときに、何人かの人が「ラテンアメリカ文学なら私は『夜のみだらな鳥』が好き」というようなツイートをしていた。一人ではなかったんだな。そうか、知らなかったな。と思っていたら、読書師匠のしむちょんが、ドノソの別の本についての感想文を書いて、そうか、ドノソ、読まんといかんのか、と思ったわけだ。

 で、世間の多くの読書家の皆さまが文庫版『百年の孤独』と格闘しているだろうその時期に、(そういえば、ツイッターでは最近、『百年の孤独』やっと読み終わったー、というようなツイートがちらほら見え始めた)、僕もひと月以上格闘した末に、この『夜のみだらな鳥』、読み終えたのである。

 ガルシア=マルケス小説を読み終わった後の「楽しかったーー」というような明るい満足感爽快感は、無い。つまらなかったわけでもない。分かる分からないで言えば、そもそも時間や筋が混沌としていて、読解力が無いから分からないというのではなくそもそも書いている方の意図が、非合理的な、想像と現実の区別のつかない、どこで「わりと現実的な筋」と「そこから分岐する幻想」が並行し、どこで元の話の時間に戻るか、みたいなことが、およそ整理してもどうしても余りが出るような構造になっている。そういう小説である。

 語り手は、今は修道院の中で聾啞者の作男として生きている老人ムディートだが、元は、名家アスコイティア家の上院議員ドン・ヘロニモの秘書であり、小説家でもあった男だ。
 その修道院は、アスコイティア家の持ち物で、アスコイティア家の数代前の若い娘(魔女である召使の女に魔女にされかけた)を預けたという因縁がある。
 この「美しい娘と、召使の老婆(魔女)」というのが繰り返され、ヘロニモの妻、イネスには魔女らしき召使ベータ・ポンセがくっついている。というとずいぶん昔の話のようだが、もう戦後、現代の話で自動車もラジオも電話もある現代が舞台である。
 「ヘロニモとイネスには子供ができない」という筋と「ヘロニモとイネスにはひどい畸形の障碍を持った男児が生まれた」というふたつの筋が分岐する。「畸形の男児、ボーイが生まれた」という筋では、その子が自分が畸形であるということを認識せずに成長できるように、国中からひどい畸形をもった人間だけを集めて外界から隔絶した屋敷を作る」という話が発展していき、ムディートはそこの責任者を任される、というふうに話は展開していく。そこでひどい胃の病気になった末に弱り切って、修道院に移るというのがひとつの話である。

 もう片方の筋では、生涯こどもを持つことがなかったヘロニモの妻、イネスが、老齢になりヘロニモを避けて、修道院に住みはじめ、昔からイネスに対して欲望をもっていたムディートが・・・という話が進む。

 その修道院には孤児、身寄りのない少女たちも暮らしていたが、そのうちの1人、奔放なイリスという少女が、街の、ヒガンテ(祭りの巨人)の仮面をかぶってサンドイッチマンのような仕事をする男と関係を持つようになり妊娠し、その子供を「奇跡の子」として老婆たちが育てようとする、というもうひとつの話の筋も加わる。本人はヒガンテとセックスしているつもりなのだが、しかし実は、ヒガンテの仮面をかぶった様々な男とセックスしていて、ムディートも、元主人のヘロニモも相手をしている、という複雑な話になっている。

 そのように、どの、複数の話の筋においても、セックスしているのが誰なのか、どの子供の父親が誰なのか、主人、ドン・ヘロニモである、という話と「ドン・ヘロニモと入れ替わったムディートである」という話が並行して語られる。

 つまり、性欲、愛情、その入り混じったものを、権力者、ドン・ヘロニモが手に入れている、ということと、それを奪って自分が女を手に入れ、性交し、父親になりたい、というムディートの欲望・願望が、繰り返し、重層的に語られ、どれが本当なのか全然分からなくなる。

 そのムディートの性的関係の相手、女性のほうも、美しい令嬢イネスなのか、イリスなのか、それともそれに影のように付き従っては入れ替わろうとする老女で魔女の誰かなのか、若い女性としているのか老女としているのか、もうそのたびにいろいろなことが書かれて分からなくなるのである。

 全然分からない?そうなのよ。分からないんですよ。ものすごく気持ちが悪い悪夢のようなシーンと、現実的で汚らしいシーンと、ときどき理性的にくっきりと思考の焦点が合ったような部分が入り混じり、理解しようとすればするほど
分からなくなる。章ごとに、思いついたように思わぬ方に話が広がっていくかと思うと、また修道院を売却して、というような現実的な話に戻る。

 聖者として生まれた赤ん坊を、目も何も、穴という穴を縫って塞いで外界から断ち切って穢れなきものとして育てる「インブンチェ」という考えというか、そういうイメージが初めの方で提示され、それが悪夢のように、「聖者として生まれる赤ん坊に」「インブンチェ」に、主人公、語り手が想像の中でなのか現実になのか、近づいていく。

 性的欲望についても、外界から隔絶されていきたいという願望についても、作者の頭の中でイメージが大暴れして、物語をあっちこっちに揺さぶっていくのだな。

 そういう、悪夢の中をさまよい続けるような読書体験というものを、してみたい人なら、読んでみてもいいかも。

 ガルシア=マルケスの小説を、僕は宮藤官九郎のテレビドラマ的に面白い、と例えるのだけれど、これは、ドノソは、同じ大人計画でも、松尾スズキさんの作品の方の、どろどろとした演劇を見ているような、それくらい全然違うものなのだな。
 クドカンのイメージのぶっ飛び方の、明るく、不思議で合理的には説明不可能でも、ドラマ全体の中ではすんなり受け入れられ、時に美しくもあるようなそういう非現実の取り込み方というのは、これはガルシア=マルケス的だと思うのだが。
 ドノソのそれは、不快で醜いものが溢れるように出てくると、感覚がおかしくなっていくような、そういう価値の混乱を起こすことを目的としたような、その中で何かいろんなことが浮かび上がってくるような、そういう、不愉快の中をさまよい続けるような、そういう作品世界でした。

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