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自分の頭で、自分の言葉で一から考えるシリーズ。民主主義について。選挙について。都知事選のことは直接は論じません。

 選挙になるたびに選挙に行かない投票しない人の意見というか気持ちとして、「政治についてよく分からないから、私みたいによく分かっていない人間が、なんとなくの印象とかで投票したりしないほうがいいんじゃないか。」ということを言う人が、知人でもいるしツイッターやFacebookでもそういう声は散見する。
 そういうとき、「いや、わからなくても選挙に行って投票していいんだよ」とこれまでいろんなところで書いたり言ったりしてきたのだが、それってなんでいいんだろう。本当にいいんだろうか。どういいんだろう。まてよ、よく分かっていないな。
 ということで、今日はそのことについて書きながら考えていく。まだ結論は無い。

 まず、ツイッターで見かけた、過去のAbemeプライムからの切り取り動画。過去のいつのだか分からないが、Abemeプライムで、宮台真司氏がひろゆき氏や成田悠輔氏と政治と民主主義とインターネットについて議論しているようである。そこでの宮台氏の発言動画だ。

インターネットで人々が政治参加すると民主主義が良くなる。ありえないでしょ。だってクズが参加してくるんだよ。

 さすが宮台氏、露悪的刺激的発言だけれど、要は「政治のことがよくわからずインターネットの偏った情報に踊らされるやつらが大挙して参加してきたら、もっとひどくなる」という、「わからないやつが民主主義に参加することの弊害拡大」を語っているわけである。そうだとすると、宮台氏なら「わたしみたいによく分からない人間が投票しないほうがいい」という人に対しては「その通り、投票しなくていいよ」というのかな。

 これについてツイッターでは好意的に解釈してくれている意見があって、宮台氏の発言は小林秀雄が福沢諭吉について論じた啓蒙の困難について、宮台節で荒っぽく言ったのだろう、ということを書いている。その小林秀雄の文章というのは

 彼は大衆の機嫌を取る様な人ではなかったが侮蔑したり皮肉を言ったりする人でもなかったであろう。恐らく彼の胸底には啓蒙の困難についての人に言い難い苦しさが畳み込まれていただろう。

 先の宮台発言を受けて、Abemeプライムでは成田悠輔氏が、新しい時代の啓蒙の可能性について語っている。ということを指摘する別のツイッター投稿が続く。成田氏の発言部分動画である。
 本当にね、成田悠輔氏というのはいろんな発言を取り上げてものすごく批判されるけれど、著書を読んでみたり、いろんな場所での発言を聞けば、わりと誠実にストレートに考えるタイプのひとなんだと思う。ただ、頭の回転速度が異常に速くて、普通の人が結論だけ聞くと突拍子もないと思うところまで結論が到達してしまうんだな。ここではかなり当たり前のことをちゃんと言っているので引用するが、驚くのはこれ1分40秒ほどの切り取り動画でこれだけの量のことを言っているのね。これ、単純に語ったことそのままテロップに出ているのを書き写しているのだが、前の発現を論理的に受けて次に展開していく、ものすごくロジカルな発言なのだな。ぼくはね、成田悠輔氏のそのロジカルに高速度で思考すると当たり前にこういうことになるというその思考スタイルがわりと好き。引用するけど長いよ。

 その、みんなで決めていく民主主義社会みたいなものって基本的に、そのみんながそこそこの情報を持ってて、しかもその情報をどうやって処理していいか、だいたいみんな分かってるってことを前提としてると思うんですよ。
 なんですが、僕の印象というか、絶対明らかなこととして、世の中の複雑性とか、或いはその世の中を動かしている色んな技術とか科学の複雑性っていうのがどんどん増しているのに、その教育とかメディアの側が全くついていってないと思うんですよ。
 つまり過去30年間で人間が義務教育で手に入れる考え方のスキルっていうのに、どれくらいの変化が生まれたかっていうことを考えると驚くぐらい変化がない。というのが現状だと思うんですね。という意味で教育もまずいことになっていて、で、しかもメディアの側もみんなのその共有知識というか、みんなが共有しておくべき基本的ファクトみたいなものを提示するっていう機能を失って、それぞれのチャンネルがそれぞれの好みに従ってファクトを選り好みしたり或いはオピニオンを提示したりしてるというのが現状だと思うんですね。そういう意味でいうと野心的に言うと、壊れてしまった教育と、壊れてしまったメディアを、デジタルメディア・新興メディアがどう作り変えられるか、てことが問題だと思うんでですよ。そういう意味で言うと、その旧来のメディアがやってたようなニュースで情報を流すということだけじゃなく、その情報をどういうふうに消化するかっていう、その考え方のOSとか道具みたいなものっていうのどう提示できるか。ていうのが重要だと思っていて。議論の中で重要なのはこのなんか僕たちが喋っている時にどういう考え方をしているかっていうことの方が、どういう立場をとっているかとか、どういう結論に至っているかより、はるかに重要だとおもうんですよね。そのプロセスの方にやっぱりもっと光を当てないといけない。

 ねえ、成田悠輔氏は「シン・啓蒙主義」だと思うわけ。知識情報ではなく考え方の新しいOSを教育すべきだっていうことだから。

 なんだけどね。結局、なんらかの新しい考え方のOSをちゃんと教育でインストールされた人間しか、民主主義には参加できない。そうでない人が参加すると民主主義は成立しない。少なくとも宮台氏同様、今、現状の教育とメディアでは、民主主義の質はどんどん下がる。民主主義は成立していないということを裏返せば言っているのだな。そうだとすると、「よく分からないから投票しない」は正しい、ということを言っているのかな。

 さて、そこでね。話はすこしというか、だいぶ、飛ぶ。民主主義の反対概念をすぐ「独裁制」とかにしちゃうのは頭が悪くて、プラトン以来、まあなんというか「賢人政治」の方が民主主義よりいいんじゃないの、という議論はずっとある。ローマの共和制も、民主主義じゃなかったわけで。

 このあたり、僕は「二院制の起源」というnoteを以前に書いていて、なんで二院制があるのか、どう違うのかを、イギリス、フランス、アメリカ、日本の二院制のあり方の、成立の経緯と根本的な理念により分析考察するというのをやっているのだな

 でまあ
①「貴族院と庶民院」起源のイギリス。
②「フランス革命の後の(貴族もいない中での)一院制での独裁暴走を阻止するための二院制。制度としては普通に国民が選ぶ下院と、下院議員と地方議員が投票者となって選ぶ上院(分かっている人が選ぶ)フランス。なんか野球とかバスケとかラグビーとかのMVPで「選手が選ぶMVP」みたいなのあるじゃん。そういうのが上院というのがフランス。
③アメリカは「合衆国」と「合州国」。人数割りで選ばれる下院議員と、州に二人ずつと割り振られる上院。「民衆の代表」と「州の代表」なんだな。

 これと比較すると日本のは、イギリスに近い起源を持ちつつ、今はこれといった差がないんだな。任期の違いと解散の有無くらいしかない。根拠薄弱である。

 でね、そのnoteを書いて思ったのは、民主主義には、というか政治には「当事者の代表の集合」という草の根ボトムアップ形の民主主義と、「できるだけ大所高所・長期的視点で考えられる賢人を選ぶ」という形の民主主義。というふたつのアプローチがあって、それが補完的に機能するように二院制というのはある、というのが正しそうだなあ、と思ったのね。

 これ、れいわ新選組がかなり重度の身体障碍がある舩後さんと木村さん、二人の国会議員を当選させたときのいろいろな議論を聞いて思ったのだな。肯定的な意見として「そういう障碍を持った人が当事者として議会に議席を持つことの意味が大きい」ということだったのに対し、「国政に関わるあらゆる問題についての議論を理解し、また物理的にも長時間にわたるそうした議論審議に肉体的に耐えうるのか」みたいな否定的意見があったのだけれど。れいわはその後も天畠さんという障碍を持った方を国会議員にしている。

 でね、この方たちにどういう能力資質があるか、そして国会議員としての役目を果たせているか、という評価はここではとりあえずおいておいて(なんとなく、障碍者としての当事者性を超えて活躍しているように見受けられるが)、とりあえず、当選直後、これに関する議論を読んだり聞いたりしたとき、なるほどなあ、「ある特定の問題の当事者代表(その問題の切実さがいちばん分かっているという強み)」という側面と「国政あらゆる問題について的確な判断ができる」というある種の万能性、というふたつの異なる側面が国会議員にはあるということを、改めて考えたのだな。

 なるほど、様々な困難や課題を抱えている人たちが、当事者として、当事者代表として政治家になる、というのはひとつの考え方なんだな。国政に関わる全部のことについてわからなくてもいい。自分にとって重大な切実な問題の解決のために、その問題を国政で解決するために議員になる。

 これ、別に「弱者」だけでなくてよくて、「グローバル大企業のより自由な金儲けができるようになるために、その利益代表として国会議員になる」でもいいし、「医師、病院の既得権を守り、拡大するために、国会議員になる」でもいいのだよな。

 あるいは、国全体のことなんかお構いなしに「地元に予算を分捕ってくる。地元に公共事業をもってくる。国のことなんか知らん。国会議員は地元のために仕事をする。」というのも、こう考えると「当事者代表」として国会議員になる、の代表的一例として理解できるよな。

 で、そういう「一部特定の問題課題もしくは利益の代表」としての様ざまな「国政全体のことはよく分からないが、自分の課題解決のために国会議員になりました」という人がうじゃうじゃと集まって、結果として全体としては国民様々な人の代表として国会が成立している。それが民主主義だ、という考え方だな。下院的アプローチと仮に名付けておく。

 そうやって国会の中で似た利害を持つ人たちが寄り集まって与党になって内閣に参加できるようになったら、自分の分かる、自分の利益に関わるところの政務次官から副大臣から大臣になり、自分の抱えている課題解決または利益誘導をする。というのが民主主義だ。なるほどなあ。

 国会議員がそういう「国政全体のことなんか分からないけれど、自分の困っていることや利益について、政治家になることで解決したい」という人の集まりなのであれば、投票する側も、「自分の困っていることを解決してくれる、または自分に利益誘導してくれる人が誰なのかを見極めて、その人に投票すればよい」のであって、簡単だと思うんだよな。国政全体とか国際政治とか経済とか難しいことは全然分からなくてよくて①自分に得なことをしてくれる人。そういうのが特にない場合には、自分は今、別に得もしたくないし困ってもいないという人の場合は、自分がいちばん「こういう人が可哀そうだな」と思っている人や問題について、解決すると言っている人に投票すればいいじゃんね。

 たとえば、神宮外苑なんかには別に遊びに行くこともないんだけれど、昔からある立派な並木が切られちゃう、切られちゃう樹木がかわいそう、と思ったら、「木を切るのをやめさせます」という候補者に投票すればいい。うん、簡単である。

 でもね、みんながモヤッとするのは、なんか、民主主義ってそういうものなのかなあ、という疑問があるんだと思うのね。もうちょっと大きな世界の中での日本とか。もうちょっと長い、孫の世代が生きる50年後の世界とか。そういうことに対して、大きな視野で、今、やらなければいけないことを考えられる、実行できる、そういう「賢人」を、政治家には選ばなきゃいけないんじゃあないかなあと。これを上院的アプローチと仮に置く。

 二院制というののひとつが「個別問題利害関係の当事者代表の寄せ集まり」としての下院だとすると、

 上院の方は「大所高所と長期的視点で、普通の人にはよくわからない、国の政治のかじ取りをしてくれる、賢人政治の場」みたいなものをなんとなく人は期待するんじゃあないかと思うのだよな。自分の利益は脇において、そういうことを考えられる人を選ぶ、ということになると思うわけだ。

 人間の知的能力、情報処理能力には個人差があるというのは厳然たる事実。かけっこと一緒。100mを9秒台で走れるごく一部の天才と、どんなに努力しても15秒20秒かかっちゃう凡人がいるように、この世界の複雑な仕組みについて、かなり広範囲に深い認識を持ちうる人間と、そうでない人間というのは、これはいるわけだ。

 で、この複雑で難しい現代社会における政治というものをするのであれば、それはいちいち凡人の意見に左右されることなく、天才の人たち、一人だと独裁になっちゃうから、そういう賢人たちが集まって、いいようにしてくれたらいいじゃないか。賢人が私利私欲に走ったら困るから、私利私欲に走る「頭はいいけど強欲で利己的」な悪い賢人を排除する仕組みだけうまく作って、あとは清廉潔白な賢い人に任せようよ。そういう仕組みだってあっていいじゃんか。とか思うわけだ。なにしろ現代社会の困難複雑な問題を、意志決定速度を極端に遅くする民主主義、選挙という仕組みを嚙ましていたら、対応策が遅くなって手遅れになっちゃいそうだもんね。

 というわけで、民主主義とか選挙というのは「賢人らしき人の中から、私利私欲に走る悪い賢人は排除する」という機能だけあればよくて、つまりそういう不祥事が明らかになったのに権力に居座る人を排除する仕組みとしてさえ機能すればよくて、あとはできるだけ優秀な賢人に政治を丸投げできるシステムであればよい。という考え方がありうるよね。

 こうだとすると、選挙というのは、「特定の問題や組織についての当事者ではなく、あらゆることに対して深い洞察を持ち、その人の言うことならなんとなくみんな納得して従えるような、そういう人を選ぶ。そういう人が「実は私利私欲に走っていないか」のチェックのために選挙がときどきある」というのが、民主主義の選挙の意味だっていうことになる。

 今回の都知事選の、蓮舫氏の大敗と石丸氏の大健闘、ということを、こういう枠組みで考えると。

 日本の政治が、大企業寄りであれ弱者寄りであれ、「なんらかの具体的問題課題に関しての、当事者代表の発展形としての政党」の対立という形で(下院的文脈で)成されてきたことへの、そのこと自体への嫌気がさす感じ、というのがあると思うのだよな。

 「いちばん弱い人に寄り添う」みたいなことを言われたときに、それはそれで支持できない感じ、自分はいちばん弱くはないから、その政治家には相手にされないんじゃあないか、排除されちゃうんじゃあないかという感じとか。
 そういう「いちばん弱い人に寄り添う」と言っているうちに、国際政治のたとえば軍事的脅威とか、経済競争に負けるとかで、日本全体が沈没したり戦争に巻き込まれたりするんじゃあないかという不安とか。

 なんか、「当事者性のある個別の問題」の利害代表ではなくて、今のこの社会世界の複雑性に、新しいやり方で向き合ってくれる、そういう政治家を選びたいなあという気分。なんかそういうものを石丸氏は体現したんだろうな。いや神奈川県民なもんで、都知事選は他人事だったので、そんなにちゃんと追いかけていたわけじゃあないんだけれど。別に石丸さんのこと知らんし、支持してもいないけど。

 というわけで、話はぐるっと冒頭に戻って。「よく分からないから投票しない方がいい」ということに関しては、二院制の「下院的=個別課題の当事者として選ぶ」アプローチとね「上院的=私利私欲のなさそうな賢人を選ぶ」アプローチがあって、好きな方でいいよ。どっちも民主主義の一側面だからね。という結論になるな。

下院的アプローチなら、
①今、困っていることがあるなら、自分が抱えているいちばんの問題にいちばん解決を約束してくれそうな候補者を選ぶ。少なくともその問題があることを分かってくれていて、親身に語っている人を選ぶ。
②特に困ったことがないという人は「こういう人やものが今いちばん可哀想」というのを考えて、それを救うと言っている人を選ぶ。いいことをした満足はなんとなく得られる。自分は弱い人や弱いものの味方をするいい人だ、その人たちを選挙を通じて支援したという満足が得られる。募金みたいなもんである。
③特に困ったことがない人は、実は投票しなくていい。今のままの世の中が続くでしょう。
④偉そう強そう勝ちそうな人に投票する。自分は強者側の人間だ、勝った方に投票したという満足が得られる。具体的にいいことはなくても、そういう満足は得られるな。

上院的アプローチなら
①まず、私利私欲が透けて見える人を選ばない。この人、いいこと言っていても、欲張りそうだな、裏で悪いことしそうだな、という人は選ばない。
②この人、複雑でわかりにくい世の中のことを、いろいろちゃんと広く深く理解して、わかりやすい言葉で語ってくれるな。賢いな。まかせて良さそうだな。そういう人を選ぶ。ひとつのことじゃなく、政治に関わるいろんな幅広いことを、それぞれについては具体的に語れる人を選ぶ。・

 あんまり結論はないのだが、昨日からあれこれ考えていたことをとりあえず、書いてみた。実はこのことと、大河ドラマ「光る君へ」の中での政治課題もろもろの関係性、というテーマも頭の中には浮かんでいるのだが、長くなるし散漫になるから、とりあえず今日はここまで。

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