再挑戦、「木綿のハンカチーフ」で描かれているドラマが、宮本浩次さんのカバーを聴いて、(太田裕美さんが歌うのとは)全く別のドラマに思えてきた件について。(藤井風くんカバーを聴いて、さらに確信した件について。)

 一つ前の投稿で、この件について書いたのだが、個人的エピソード多数をまぶして冗長であったために、論旨が友人・読者に伝わらない事案が多発したので、再挑戦・投稿します。ロジカルに書くことにしたので、かなり無味乾燥になりますが、複雑な話を説明するためなので、そこは止む無し、と考えました。(あっちはあっちで、個人的思い出の記録としては意味があるので、そのまま残しておきます。)

論旨まとめ

①木綿のハンカチーフは、発売当時の、1975年、太田裕美によって歌われたものでは、「田舎に残された女の子が、かわいそう」「都会に出た男の子、ひどいなあ」という印象を、当時12歳~13歳だった私には、与えた。同学年の私の妻も、そういう印象を受けていた。そういう印象をもって、45年間生きてきた。

②今回、エレファントカシマシ宮本浩次さんが、NHK coversで歌うYouTube動画を見て、紹介してくれた先輩コピーライターの方が、宮本浩次さんが歌うことでこの歌は「別の顔を見せた」というコメントを読んだ。さらに、YouTubeコメント欄にある「印象が変わった」「男の気持ちも分かるようになった」という主旨のコメントを見て、私も同様の印象を持った。(妻も同様)

③当初、それは、歌い手が女性・太田裕美から、男性・宮本浩次に替わったために、男女二人の手紙をやりとりする歌詞というこの歌の特徴上、男女どちらが歌うかで、その手紙のどちらにより感情移入すべきかが、違ってくるせいだと考えた。

④ところが、それだけではなく、昔、僕や妻がテレビでこの曲を聴いたときは、本来、フルコーラス全部で4番まであるこの曲が、TVの尺に合わせて、3番がカットされることが多かった。3番がカットされると、二人の関係について、起きたドラマについて、より「女性が可哀そう」「男性が悪い」感が強くなる。ということが発見された。

⑤この発見をさらに補強するものとして、天才、藤井風くんが、デビュー前にピアノでカバーしているこの曲をチェックすると、2番をカットし、3番はありという、独自の構成でカバーをしていることがわかった。つまり、男性目線で歌う場合には、3番のエピソードが重要であることがわかった。

⑥結論として、「男性が、フルコーラスで歌う」場合と、「女性が、3番カットして歌う」場合とでは、「どちらに感情移入できるか」「どちらがより可哀そうな感じがするか(別れの原因の配分比率)」についての印象が、ずいぶん大きく変わるようである。との発見に至った。

宮本浩次さんカバーは、歌唱としてエモーショナルで素晴らしいだけでなく、そういう、思いもしなかった。気づき、この歌に描かれたドラマの新しい角度での解釈を与えてくれるものでした。


本文・詳細

では、細かく、見ていきましょう。

この歌は、都会に出てきた男性と、田舎に残った女性、という恋人同士の手紙のやりとりで展開する。

前の投稿から、歌詞のドラマ展開のまとめを転載。(一部修正アリ)

木綿のハンカチーフの歌詞は
上京した男から田舎に残した女への手紙 「なにか欲しいものはあるか、プレゼント贈るよ、贈ったよ」→女から男への手紙「いいえ、何もいらないわ、あなたが変わらず帰ってきてほしいだけ」というパターンの繰り返しなわけですわ。基本。
一番は
男「いま列車ン中、東京ついたら、なんかプレゼント探すからな、なんかほしいか?」
女「いいえ、なんもいらん、都会の絵の具に染まらないで帰ってね」
二番は
男「都会で流行っている素敵な指輪を贈ったぞ。どうだ」
女「いいえ、指輪なんかいらん、ダイアより真珠より、あんたのキスがいいの」
三番は
男「おまえ、今も口紅も塗らず、すっぴんですごしてんのか。おれは、どんどん垢抜けてきたぞ、いけてるスーツ着てる俺の写真送るぞ。見てね。(ほめてね)」
女「いいえ、(かっこつけた背広のあんた好かん)、草の上にねころぶあんんたが好きだったの」
四番
男「おれ。都会で毎日楽しいし、もう帰らんわ。(こっちで女できたって察しろ)」
女「わかったわ、いままでいらんいらん言ったけど、最後に涙ぬぐう木綿のハンカチーフください」
という歌なわけなんですね。

もし、映像でこれを表現すると仮定しよう。普通、すぐ思いつくのは、「男性が手紙を書いているシーン」(都会)、女性がそれを読んで返事を書いているシーン(田舎)というのを、四回繰り返す、というもので、男女登場人物の重さは五分五分になる。

 しかし歌の場合、歌い手の性別によって、女性が歌っている場合は、女性主人公的に、聞き手は聞いてしまう。女性の立場に感情移入してしまうわけだ。だから、田舎の草原のようなところで、女性が、都会から来る手紙を読んでいる。それに対し、女性が悲しい思いを募らせて、悲しい返事を書く。太田裕美が歌っていると、どうしても、頭の中に、そちらの絵が優勢に占められてしまう。けなげに、田舎で恋人を思う女性(気持ちは変わらない)に対して、都会に流されて、だんだん心が離れて、最後は女性を捨ててしまう勝手な(仕方ないとはいえ)どんどん変わってしまう男性、という情緒が、聞き手を支配する。太田裕美ちゃんを、その女性と重ねて、太田裕美ちゃん、可哀そう。この男、許すまじ、という気分になるわけだ。

 ところが、男性が歌い手だと、「都会に来ても、女性を思って、何か欲しいものがあるか、といつも女性へのプレゼントのことを考える、男性」というのが、どうしても主人公になる。いろいろ考えて、手紙を書く。すると、しばらくして女性から手紙が返ってくる。必ず「いいえ」という否定の言葉から手紙は始まる。何もほしくないわ。変わらないで、帰ってきてほしいだけなの。毎回毎回、そういうことが書いてある。無理を言うなよ。帰れないし、都会で暮らせば、変わらなければ、周りから浮いてしまうんだよ。なんとか、早く都会になじもうと、僕は頑張っているんじゃないか。そういう、上京して、都会になじもうともがきながら、そのことで、彼女との心が離れていく、男性側の悲しみが、主人公になる。そちらに感情移入すると、女性の態度が、「純朴」というよりは、自分勝手な頑固さにさえ思えてくる。

 そう、男性・女性・両方を主語として半分ずつ書かれた歌詞だからこそ、歌い手が女性から男性に替わると、聞き手が感情移入する主軸が変わるのだね。ということが、宮本浩次さんが歌うこの歌を聴くと、強く感じられるわけだ。

 ところが、「男性にも一理ある」感がするのは、歌い手が男性になったからだけではないみたいだ、ということに、一緒に聞いていた私の妻が気が付いた。「昔、聴いた歌には、3番の、スーツのくだりが無かったような気がする」と妻が言い出した。「3番が無いと、印象、違うはずだよ。」

 「え、そんなはずはない」と思い、太田裕美バージョンのYouTube動画をチェックすると、レコード音源のものにはちゃんと1番から4番までがあるのだが、テレビ番組を載せた動画(おそらくNHKのレッツゴーヤングだと思う)だと、3番がカットされている。2番の指輪の話から、急に、4番の別れ話になってしまうのだ。3分間以内と言う、当時のテレビ歌謡番組の歌手1人に与えられた尺に合わせると、3番はテレビではほとんど歌われなかったものと思わる。歌謡曲を、テレビでしか聞かなかった僕や妻は、3番をほとんど聞いていなかったのだと思う。

 3番について、先ほどのnoteから引用する。

2番の、指輪よりキスがいい、のくだりまでは、まだ、切ないラブラブ感があるのだけれど、3番、スーツのところで、はっきりすれ違いというか亀裂というか、別れの予感というか、あるわけですよ。
この三番の、「いけてるスーツ」のくだり、ここだけほんとの歌詞を引用しちゃうと
「見間違うようなスーツ着た僕の 写真 写真 見てくれ」
「写真 写真 見てくれ」ですよ。男の子、かなりこの写真、自慢で、嬉しくて、褒めてほしかったんだと思いますよね。二回、繰り返しているもん。
それに対して、女の子
「いいえ 草にねころぶ あなたが好きだったの」
もう過去形だよね。「好きだったの」。この三番で、女の子の方が、彼をふっているよね。読みようによっては。

 3番「せっかくスーツの写真を送っても、昔のあんたが好きだった」と言われては、僕も、もう、(触れることもできない)彼女のことを思い続けるのは無理だなあ。現実の僕はどんどん都会に合わせて変わっていっているわけだし。そう思っても、仕方がないという気持ちが、強まるのではないかしら。

4番の、破局、別れを告げる手紙の前に、3番のやりとりがあるかないかで、二人の関係性の印象は、かなり大きく変わると思うのだよね。3番で、男性側の「もう無理」な気持ち。女性側の「もう、今のこの人が変わっていくことは止められない」というあきらめ、そういうものが準備されていると思う。

12~13歳だった僕や妻は、3番抜き歌詞をテレビで聴いては、「突然、女を捨てちゃう悪い男」「一途に彼を待ち続けているのに捨てられちゃう可哀そうな女の子た太田裕美」という印象を胸に焼き付けたのだと思う。

そして、藤井風君のカバー動画を見る。前の投稿から引用。

まずね。風君、ジャケットに赤いネクタイをしていて、僕は前に見た時、「高校の制服かな」と思ったんだけど、どうも、風君的には、「いけてるスーツを着ている男主人公」になっているコスプレのつもりっぽいわけ、改めて見ると。
 そして大発見、風君は2番をカットしているわけ。指輪のくだりは無し。そして、3番スーツのくだりはしっかり歌っているわけだ。2番カットで3番ありというのは、おそらく昔の太田裕美がTVで歌唱する場合にはありえなかったはず。風君が、3番の、「むしろ女の方からふった」ことを重視していると思うわけ。男性主人公で考えるなら、2番より3番にドラマがあるわけだ。
 さらに、風君は、女の子セリフ部分は、こちらから見て左側を向いて歌い、男の子セリフはこちらから見て右側を見て歌うという、落語テクニックを使っている。(風くんあるあるなのだな。)
 これを観察していた妻、さらにすごいことを言うのだな。
 女の子のセリフの時の表情が、純真な田舎の女の子というよりは、ちょっと『雪の女王』とか『白い魔女』みたいな,怖い、固い表情になってるって。それに対して、男の子の方の表情は、純真な男の子っぽい表情で歌ってる。女の子の方が強情で強い。男の子の方が気弱そう。

 そう、藤井風君の、この歌の歌詞の解釈としても、二人の登場人物の性格の理解についても、どうも、「純粋だけれど、ちょいとお調子者で流されやすい男性」と「芯が強くて、なかなか手ごわい女性」という、そういう解釈のように読めるのだなあ。素朴な感じのする女性が、実は芯が強くて、悪く言うと頑固で、ということは、まま、あることだから。

 1975年当時に、すでに20歳とか、もっと大人だったりすると、そういう機微は、当然のこととして分かって聴いていたのかなあ、とも思う。けれど、何せ僕も妻も、まだ小学6年生か中学1年生だったので、そういうことはわからずに、「太田裕美、が演じている田舎の女の子、かわいそう」という歌と思ったまま、45年、その印象のままだった。

 それが思いもかけず、宮本浩次さんのカバーで、この歌の背景の、深い世界が、急に目の前に開けました。

  これはまた、同じ元情報でも、誰が語るかと、切り取り方で、印象が全く変わるという、情報と印象についての、なかなか興味深い例でもあったわけでした。

 

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