白井聡氏の「安倍政権の7年余りとは、日本史上の汚点である 私たちの再出発は、公正と正義の理念の復活なくしてあり得ない」を読みながら、考えたこと。

まずは論座のweb記事

安倍政権の7年余りとは、日本史上の汚点である
私たちの再出発は、公正と正義の理念の復活なくしてあり得ない

白井聡 京都精華大学人文学部専任講師

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 白井さんの言うこと、論旨内容には基本、同意なのですが。でも、情緒的に、同意じゃない。どういうことか。また長文になりましたが。

本文から少し引用。

「多くの日本人が安倍政権を支持してきたのである。

 この事実は、私にとって耐え難い苦痛であった。なぜなら、この支持者たちは私と同じ日本人、同胞なのだ。こうした感覚は、ほかの政権の執政時にはついぞ感じたことのなかったものだ。時々の政権に対して不満を感じ、「私は不支持だ」と感じていた時も、その支持者たちに対して嫌悪感を持つことはなかった。この7年間に味わった感覚は全く異なっている。

 数知れない隣人たちが安倍政権を支持しているという事実、私からすれば、単に政治的に支持できないのではなく、己の知性と倫理の基準からして絶対に許容できないものを多くの隣人が支持しているという事実は、低温火傷のようにジリジリと高まる不快感を与え続けた。隣人(少なくともその30%)に対して敬意を持って暮らすことができないということがいかに不幸であるか、このことをこの7年余りで私は嫌というほど思い知らされた。」

 という白井さんの気持ちに、私も全く同意なのだが。それでも、いや、だからこそ、割りきれない気持ちが残る。

 というのは。この安倍政権を支持する隣人友人ときには家族親族のことを、どう考え、どう向き合うのか、ということについて、私も、この七年間、悩んできた。そのことをどうしても考えてしまう。激しい怒りと糾弾が、正しい態度なのか。安倍氏への激しい怒りを、安倍氏支持の友人家族にぶつけたら、なんだか変なことになる。自分の政治的意見や信念を曲げるつもりはないが、そのことで友人や家族の中に分断ができたり、付き合えない友人が増えたりすることを、どうしたらいいのだろう。

 私のFacebook上の友人(この記事を紹介してくれたSさんはじめ)のおよそ半数は、安倍さんに「お疲れ様」と言うことも断固拒否して、その『罪』を徹底糾弾する立場。お疲れ様という人、最後の会見、なかなか良かったとかいう人を「甘い。もっと厳しく怒りを持て」という意見。

 うーん。、もちろん、私も、安倍氏やその周辺で、不当な政治圧力で不起訴になっていた犯罪に該当するものは、改めて検証し、立件されるべきと思う。赤木さんという自殺者がでている件。伊藤さんという性暴力被害者がいるのに犯罪が揉み消されたこと。こうした具体的被害者のでた案件が安倍氏周辺の権力構造から生まれたことは確か。だから許すことはできない。

 より大きく、公文書管理や、メディア支配など、日本の政治制度全体も大きく毀損された。制度や法律が間違った方向に変えられたものは、少なくとも、元に戻すべきだ。

その点に異論はない。

 しかし、それでも安倍政権政策の利益を直接享受できる富裕層、大企業経営層だけでなく、明らかに不利益を被っている貧しい人たちや若者にも、安倍政権を支持している人が多数いる。合理的に考えれば、愚かなである。しかし、多数いる。選挙で勝ち続けてきたのは、彼らが存在するからだ。

 その人たちを知的にも愚かな、倫理的にも鈍感な、軽蔑すべき存在として切り捨てていいのか。彼らと自分を完全に分断して、徹底的に「敵」(カールシュミットの言う友敵関係の)として、敵対してしまっていいのか。

 彼らと対話を成立させるために必要なのは、政策成果や犯罪不正は一旦おいて、「病気は、お大事に。長い間、激務であったことにはお疲れ様。外交については、対米従属はともかく、中国韓国との対立のしかたはともかく、それ以外の国と協調する点では、まずまず良かったかもね。」そうやって、対話できる部分を、持つことが、まず、必要なのではないか。
 
 話は飛ぶが、一昨日のワシントンでの黒人差別反対大集会をCNNでの中継を流しっぱなしにして、ずっと見ていたのだが。みじかいニュースではわからない会場の雰囲気、空気を感じながら考えた。

 黒人参加者の多くは怒りながらも冷静に、演説したり、声を揃えてシュプレヒコールをあげたりしていた。でも、時々、演説を妨げるように、興奮して騒ぎはじめそうになる人達一群が出てくる。会場の一部に、暴発しそうな不穏な雰囲気が時々生じる。(白人も少数ながら参加しているのだが、そういう瞬間に、不安そうな表情になったように思うのは、私の思い過ごしだろうか。)

 思考実験。もし、アメリカという国が、何かのとんでもない変化が起きて(例えば、白人だけ致死率の高い疫病が流行るとか)、黒人が多数派になり権力を握り、白人がマイノリティとなり、貧しい弱者になる。黒人白人の立場が逆転する、という世界になったとする。多くの黒人は「自分達はかつて差別されてつらい思いをしたから、自分達は、白人を差別しない」と考え、行動するだろうか。うん。きっとすると思う。

 しかし、一定割合で「われわれは長いこと差別され抑圧されてきた。だから、我々には白人を差別し抑圧する権利がある」と行動する人が出てこないだろうか。黒人が、ではなく、人間性の中に普遍的に、そういうことへの態度のばらつきがあり、報復し返さずにいられない人は、一定割合、必ずいると思う。

 政治的に立場や意見の違う人間を、「全人格的に否定すべき敵」と考えることに、私はどうしても抵抗がある。安倍氏本人についても、麻生副総理にしても、政治家としては、国のリーダーとしては不適格だと思う。その政治的行動や発言のほとんどは認めがたい。

 それでも、人格のすべてを否定することは、それは、存在そのものを否定することと、紙一重だ。

 リベラルな革命をした弱者の味方が、権力の座についた瞬間にもっとも冷酷な独裁者となり、粛清を実行する者に転じた例は、歴史にいくらでも例がある。

 お隣韓国では、政権交代後に、前大統領が、在職中の不正を問われて投獄されたり自殺したりすることが毎度のように繰り返される。厳密に司法が機能しているのだ、ともいえるが、政権を取った側に有利に、失った側にひどく厳しく司法が運用されているようにも思える。

 またまた、まったく飛んだ例えばなしになるが、音楽集団のEXILE、音楽中身もライフスタイルも、私はの趣味からは、遠く離れている。別に私はクラシックファンとかではない。ジャズ・フュージョン、モータウン、クインシージョーンズ、プリンスなど黒人音楽・ダンス音楽には長く親しんできた私の耳には、特に響くところがない。「関係ない」からといって、そのことで、ファンと喧嘩したりする、ということは、無い。音楽の場合は、「趣味の違い」で済む。

 かつて、広告の仕事で、広告主からの要望で彼らをタレント起用したキャンペーンの戦略立案や効果分析をしたことがある。当時、全盛期、初期の人気ピークのころで、大変な売り上げ規模だが、どういうファン層の支持であれだけ売れているのか、当初理解できなかった。私の周囲には、EXILEを聞いている人間が一人もいなかったから。分析してみると、固有の層(マーケティング用語でいうと、マイルドヤンキー層)に偏っている。マイルドヤンキーというのは、いわゆるヤンキーではない。学歴はあまり高くなく、地元を愛し、生活を愛し、仲間との絆を大切にし、というような価値観の、「いまどきの大衆」層である。高学歴都心型に偏った広告代理店マーケティングスタッフまわりにファンが見当たらなかったのも、調査分析をすれば納得であった。

 そういうわけで、EXILEファンの人達と私とは、おそらく、会話があんまり成立しそうもない。

 しかし、私のもっとも尊敬するアーティスト、玉置浩二さんは、EXILEのATSUSHIさんと共演、デュエットすることを何度もしており、心から楽しんで二人で「夏の終わりのハーモニー」を歌ったり、エグザイルの「Ti Amo」を歌ったりしている。(YouTubeに動画がある。素晴らしい。)

 ATSUSHIさんが玉置さんの実力に驚いて、弟子入り志願して、自宅に招いて歌を教えてあげたりもしたというエピソードもあるらしい。(未確認)

 玉置浩二さんのお陰で「私と趣味はあんまり合わないが、EXILEも、そのファンも、音楽を愛する仲間である」と思えるようになった。人間として悪い人たちではない。おそらく、友達にはならないが、敵ではない。音楽の趣味で憎み合ったり罵り合ったりすることは(YouTubeのコメント欄なんかではよく起きるが)バカバカしいし、命のやり取り、暴力になるなんてことは無い。

 安倍政権を支持する人たちのことも、僕の側から見れば「(政治的な意味で)趣味悪いなあ」と内心思いつつも、同じ日本に住む人間として、敵ではなく仲間同胞、部分的には友人にもなりうるはず。あちら側から僕のことを見たときにも「インテリぶりやがっていけすかないやつ」とは思っても、サッカーやラグビーやボクシングの話なら合うから、まあ友達でいてやるか。と、共存できる、そういう話の通じる部分を持ちたい。

 こと、政治で対立するという場合だけ、なぜ全存在(つまり最終的に命)まで否定しあう、「友か、さもなくば、敵」、という関係になるのだろう。そのことに、どうしても抵抗したい。そうでない道を探りたい。

 今、新しく新書で出た『カール・シュミット』という本、「政治とは友敵関係」と唱えた政治哲学者についての解説書を読みはじめたが、そのことを、考えながら読んでいる。

 白井氏には『国体論』という著書があり、米国への従属こそが、戦前の天皇制に変わり、(戦後の新憲法よりも上位の)国体だ。米国への従属を規定する安保条約、さらに具体的な地位協定、日米合同委員会による支配こそが新しい国体である。という主旨の本だ。

 安倍政権が、これほどまでに正義にもとる、倫理的に腐敗した、民主主義を破壊した政権であるにも関わらず、安倍政権が毎回、選挙で勝ち続けたのはなぜか。(経済政策が受けた、という説明がよくなされるが、それは表層的な見方だと思う。)

 それは、対米従属という、この現代日本の国体を維持強化することに、なりふり構わず献身した内閣だったからだと思う。その「新しい国体」が維持されることが、現代の、日本、日本人が生き残る唯一の道だと、理屈でなく感じている人が多数いるということなのだと思う。倫理的に腐敗していようと、自分に不利な経済政策で自分が貧しくなろうとも、国体が維持されないと、自分のアイデンティティーが保持されないと感じる人がいるのだ。

 昨日から「安倍氏を人格攻撃はしない。次の政策ビジョンを考えたい」と書きつづけているのは、そういうこと。安倍政権を支持してきた人と対話するならば、安倍氏人格批判をするよりも、今の対米従属国体に代わる、どういう国体が、ありうるのかを語るべきだと思うから。鳩山氏の東アジア共同体のことを何度も書いたのも、(それにまるごと賛成というわけではなく)、安倍外交との対比をすることで、新しい国体を考えるヒントがあると思うから。両極端の間のどこかに正解はあると思う。

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