藤井風くん「満ちてゆく」の、あの部分、聴いても歌ってみようとしても泣いてしまうのはなぜだろう。
昨日、『死の講義』橋爪大三郎著の感想noteを書いたわけだが。
藤井風くんの歌は、前作「花」も、今回の「満ちてゆく」も、死をテーマにしたものだったりするのである。歌詞も、MVも。
なもんで、『死の講義』を読みながら、「満ちてゆく」のMVを無限にリピートで流していたのである。
いや、ていうか風くんの新作が出ると、ギター弾き語り用アレンジに取り掛かるので、あの本を読み始める前から1日中、何十回も「満ちてゆく」を繰り返し見ては聞いてはギターアレンジしていたのであるが。
今回の「満ちてゆく」、前にも書いたが、ブリッジ部分のコード進行と歌詞、コーラスやらなんやら、もうなんだか何回聞いても、あるいは歌おうとしても、どうしてもあそこで涙がぶわーと出てきてしまうので、これはどういうことなんだろう。もう、音楽的にそう感情が動くようにできてあるようなのである。
そう、妻からは「(ギターはいいけど)、パパは風くんの歌は歌わんでいい」命令が出ているので、妻がいないとき限定で、一人でお歌のお稽古(完コピ目指す)もしているのだが、あそこ、歌おうとすると泣いてしまって、ほんとに毎回、歌えなくなるのである。音楽の展開と、歌詞と、もう、泣いてしまうのである。
今のところの僕のギターアレンジ演奏だと、全然、涙が出ない。ということはコピーとアレンジが不完全なのであるのだな。おかしいなあ。努力継続。
泣いてしまうところの、歌詞とMVの流れは
子供の頃の回想シーン、ピアノ店のショーウィンドウに並ぶ風くんとお母さん。店内に入りピアノを選ぶ風くんとお母さん。嬉しそうな子役風くんの表情。ピアノを弾く母の手。ピアノに映るお母さん。至福の思い出である。
そこの歌詞。
海のなかに落ち、目を開けるお母さん。(おそらくはボートに残る風くんのことを)しっかり見つめるお母さんの表情。
二人の手が、離れていく。
そこの歌詞。
子役の風くん、母を探して街を走る。
それが青年の風くんに変わる。
このMVの中に、はじめの方から(一番二番の間奏とか何度か)、荒れた海の上の小さい救命ゴムボートが漂っていて、そこに年老いた風君がひとりで乗っている、という短いカットが挿入される。お母さんが死んだ後、ずっとずっと一人で生きてきた孤独が、ボートの上の風くんである。
お母さんとの死別は、お母さんが海に落ち、海の中で手を離すことに象徴されている。
人と(死んで)別れる時には、片方、生きている方はボートに残り、片方、死んでいく方は海に落ち沈んでいく。手を離すしかないのである。普通はそのことを痛切な悲しみとして描くと思うのだが、
ピアノ店での、母にピアノを選んでもらった一番美しい温かい思い出からのつながりで、母との死別、海のなかで手を離すシーン、でも母ははっきりと目を開けて、風くんをみつめている。手を離しても、生死を超えてつながっている。
愛が胸のなかに満ちてゆく。
生死を超えてつながるから、手を離して、軽くなって、そして、心の中に愛が満ちていくのである。overflowingだから、溢れてくるのである。
愛する人との別れを、こういうふうに描くのである。
この、ふつうでない、死と別れと愛についての歌詞と映像。そこに響くコードとメロディーの複雑な流れの美しさ。
泣いてしまうのである。
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