どうする家康、第九回「守るべきもの」感想。この家康の人物と狙いを、登場人物がさまざま解説してくれる回であった。しかし、その人物像、魅力的なのか、そもそも。
どうする家康、第九回「守るべきもの」である。
このドラマの最大の問題は、脚本家の家康についての捉え方が、根本的に「魅力的ではない」からなのではないか。松潤ごめん。君のせいではなかったようだ。そういう思いが濃くなった第九回であった。
私の毎回の感想投稿に限らず、ドラマの出来に対する批判的ネット記事なども多く見られるようになったことに、脚本家が反論するかのように、今回、このドラマ内で、①家康をどういう人物に設定し、②どのように成長していく予定か、ということについて、いろいろな登場人物の口から語らせる台詞がたくさん出てきた。しかし、そうやって目論見を語られても、今回の筋書き自体が、このドラマにおける徳川家康という人物の、なんというか病み方、病んでいるが故の気味の悪さ、人間的魅力の欠落というものを浮き彫りにしていたのである。いくらコメディー仕立てにしようと、感動物語に仕立てようと、主人公が心の闇ゆえに、人間的な成長を阻害されている、そういう人物に設定されている以上、見ている人は心から楽しいとは思いにくいのではないかなあ。
ちょっとヘビーな話になるが、書いていく。話は、まるで家康とは関係ないところからスタート。
「吐き気と便意」
話は昨年末話題になった、カンテレのドラマ「エルピス」。テレビキャスターとして、政治の闇に立ち向かう長澤まさみ演じる主人公は、テレビ局報道内部に巣くう、理不尽な「政治スキャンダルを隠蔽しよう」という様々な圧力・力学、そういうものに直面するたびに、生理的にリアルに「吐き気」を催す。「呑み込めないモノは呑み込みたくない」と思うような状況で、本当に吐いてしまう。食べ物が食べられなくなる。心にかかる圧力が、生理的反応を引き起こすのである。
この「どうする家康」の家康は、戦の恐怖、ストレスで便意を催す、という設定になっている。肝が小さい、小心者、臆病、そういうことをコミカルに扱う設定のようでもある。史実としての「三方ヶ原の戦い敗走」での武田信玄への恐怖から糞を漏らした、というエピソードにつながっていくだろうことは、何度も僕は書いてきた。
しかしこれ、笑い話ではない。ここまでの家康の精神構造を見ると、まず、幼い時に信長にいたぶられた恐怖が、体の芯まで染みついている。あれは明らかに生理的な恐怖である。私はMRIで閉所恐怖のパニックを起こしたことがあるが、あのとき感じた恐怖と言うのは、物理的実体のあるものとしての「恐怖」が体を満たしていき、それが頭まで一杯になったら確実に発狂するだろうという、リアルなものだった。エレベーターの中などで、その兆しがよぎることがあり、それは本当に「実態あるもの」なのだ。恐怖と言うのは。
幼少期の信長の元での生活は常にそういう「自分に死をもたらす暴力性のリアルに恐怖」とともにある、という体験である。
信長の元を離れて、今川義元のところに移されてから、その感覚はしばらく忘れていたのだと思う。ところが、桶狭間の戦いにおける今川義元の死が、その『死の恐怖」を家康の中に蘇らせてしまうのである。あれだけ立派で強くて尊敬できる今川義元。そういう人物も、きわめてあっけなく戦では死ぬのである。その死をもたらしたのも信長である。信長への恐怖。自らの死への恐怖。この恐怖の前では、家康の中の一切のものが吹き飛んでしまう。正しい人間でありたい。弱いものを守りたい。愛するものを守りたい。家臣に信頼される人間でありたい。そういう正常な倫理観も道義もなにもが、「信長への恐怖と、自らの死への恐怖」の前ではふっとんでしまう。恐怖は理屈ではない、生理的な切迫感として家康を襲うのだ。
今回、第九回の最大のポイントは、(本多正信の人間を描くドラマではなく)、一向宗との和睦で、「寺を、もとのままに戻す」との起請文まで書いておきながら、家康が、それをあっさり裏切って、寺を全部潰してしまうという決断をする点である。
昨年7月の番組が先日再放送があった、NHK『英雄たちの選択』「家臣団分裂!若き家康・最大の試練 〜三河一向一揆の衝撃〜」。
このドラマの考証担当平山優先生はじめ識者たちが、家康の選択「一揆勢を許すか許さないか」という問いに対して様々に考察していく。史実は、「一旦、許す。しかし、一揆勢の中の武士たちを他国に排除した後に、丸腰になった寺に対し、約束を反故にして寺を取り壊し、潰してしまう」という卑怯極まりない選択を家康はする。後年の大阪の陣での「いったん和睦する、堀を埋めさせる。そののち、攻め滅ぼす」の原型のような卑怯な選択を、このとき家康はしているのである。私はそれを数日前に見て、びっくりしたのである。
「英雄たちの選択」のメインキャスター、歴史家・磯田道史氏は家康の言葉を紹介する。「理を通すより、筋を通すより、都合の良いように解決するのが政治だ」と。
これが家康の行動原理だというのである。理を通す、筋を通すなどというきれいごとは政治ではない。自分にとって都合の良いように解決する方策を実行するのが政治だと。
その番組を見ながら、ここまでの「どうする家康」で描かれた家康の生い立ちことを考えながら、私はこう思ったわけだ。
どうも、家康と言うのは、そういう人間なのだと思えてくる。そう考えれば、この後の様々な選択についても納得できる。
そして、そういうふうに家康を駆り立てるのは、「リアルな、生理的な実態を伴う死の恐怖」「その恐怖が人格化して迫ってくる織田信長という存在」なのではないか。
ということで今回のドラマに戻る。この「寺と一揆勢をいったん許して、武装解除させたのち、全部取り潰す」という卑怯極まる選択を、家康がどういう経緯事情でしたと描いたか。
史実ではない、創作だと思うのだが、
と言われる。つまり、信長の恐怖を背景に押し付けられて、家康はこの卑怯な解決を飲むのである。
和睦の証文を交わす席で、本證寺の空聲上人に「わしの目を見て、寺を必ず元通りにするとおっしゃってくださらんか」と言われる。家康は、まっすぐ目を見て嘘を言う。信長の恐怖と、「三河の国を守る」という建前が合わされば、それが政治の現実。道義も何もないのである。
すべて終わった後、瀬名と二人、城から、城下を眺めつつ、
そして場面は変わって、テルマエロマエ武田信玄の元に戻った古川琴音千代。やはり武田の手の者であった。
何回「面白い」って言うんだくらい面白いという。
つまり、脚本家は「誰よりも肝が小さい、才もないが、そのことを自分で分かっている徳川家康」のことを面白いと思っているのだよ。その面白さをドラマにしようとしているのだよ、ということを、信玄と千代にくどいほど解説させたのである。
もうひとつ、イッセー尾形鳥居忠吉が番組冒頭、家臣の裏切りに怯える家康に対する説教の中で「家臣を信じるか、さもなくば疑わしい者をことごとく殺すか」と語らせた。(鎌倉殿の北条義時はかたっぱしから殺したわけだが)、この家康は、今回の本多正信はじめ、裏切ったものも許す。才もなく、肝も小さいから、そのことを分かっているから、家臣を信じる、裏切ったものさえ許して最後には家臣として重用する。そういう人物に「面白さ」を感じている、と脚本家は説明するのである。
脚本家の意図は分った。しかし、とはいえ、この家康、成長変化はしないのである。いくつになっても信長への恐怖と、自らの死への恐怖から、「理を通すより、筋を通すより、都合の良いように解決するのが政治だ」として、身近なものを犠牲にしたり、裏切られたりし続け、そのたび後悔の涙を流し続けるのだろう。
それをそばで見守ってくれる瀬名のことさえ、信長への恐怖から、殺してしまうのである。この人物、この家康は面白いのか。見ていて面白いのか。人物の捉え方として、納得感はある。しかし見ていて気持ちの良い人物ではない。
そういうことを考えた第九回でした。
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