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首吊り縄の抒情について(読書感想文)

2023.4.13メルマガアーカイブ

読書フレンドのおすすめで、山本文緒さんの『自転しながら公転する』という小説を読みました。


久しぶりに現代の小説を読み、最近読了するのに時間のかかる書物が多かったので、小説って読みやす〜〜〜♪と思いました(笑)


技巧的なライト

『自転しながら公転する』は、30代の女性が主人公で、彼女の恋愛や仕事のうえでの出来事や葛藤が描かれつつ、主人公のお母さんの視点も混ざり合い、更年期障害を超えていく過程、というところがクロスしながらお話が進みます。


文章的には非常に読みやすい「ライト」な文体で書かれています。しかしお話もライトという意味ではなく、実にうまくリアルに刺してくるな〜という感じです。本当にライトなのではなく技巧的にライトに書いてるんだなと思いました。女の人なら、同世代ならばとくに、共感もグサグサもどちらも感じる話なんじゃないかな。

私自身はというと、主人公の世代はもう通過していて、お母さん世代に近いとは思いますがまだそこまで達していない、娘と母の中間くらいに位置するなと思いながら読んでいました。ただやはり、どちらかというと30代の主人公の感覚よりかは、お母さんの視点で語られるところの方が、自分も足を踏み入れている感触として思うところが多々ありました。



お母さんの首吊りの縄


重い更年期を通過中の母親の視点から語られるパートは、一言に、良かったです。


母親が更年期で体調不良、そして鬱傾向にも陥り、体調も良くなったかと思いきやまたすぐに悪くなったりの一進一退。体調への対処だけでなく、病院の送り迎えや、家事もできないことで家族にかかる負担、東京でバリバリ働いていた娘を実家に戻す要因になったことなどで、「迷惑をかけている」「お荷物になっている」感が気分を塞がせます。


「お母さん」は、風呂上がりにおもむろにバスローブの紐を吊り下げて、「首吊りの縄」状にする。そしてそれを見ているだけで「落ち着き」を感じる、というシーンがありました。

文学的にも「感じる」シーンだったのですが、更年期の感覚、それがもたらす心理として(文学性とかをどかしたとしても)相当リアルだな、と思ってしまった。(そういうのが「文学性」なのかもしれないけれど。)



いったん本を置いて深呼吸。



お母さんは、けして本当の意味で死を望んでいるわけではない。しかし、心と体の制御を失い、具合の悪さとやり切れない悲しみが満潮になる。

その「生の緊張」を、首吊りの縄という死の気配をまとう象徴が、ゆるめ、癒やしてくれる。それはある種の救済であり、(特定性・限定性のない)神の気配だとも思った。



うまい言葉が見つからないのだけど、

そういうのは、あるよ、

と思いました。



このお話で登場する「お母さん」の設定でなくても、「死」の気配が「生」を慰め、「生」に滋養を送ってくれるということはある、と思いました。男女とか年齢とかも関係なく存在する心理だなと。



横尾さんの首吊りの縄


このシーンを読んだ時、画家の横尾忠則さんの“最近の絵”を思い出しました。最近の絵というのは、ここ数年で描かれた作品たちを指します。


2021年に観に行った「GENKYO 横尾忠則・原郷から幻境へ、そして現況は?」という展覧会で、膨大な数の横尾作品を観ました。

そしてその中で、多くの作品の中に「首吊りの縄」が描かれていたんですね。「最近の絵」じゃなくても首吊りの縄は頻出するのですが、私の中で特に印象に残ったのが近年(2020年以降に)描いた作品群で、ここもやはり首吊りの縄がおびただしく登場します、実に日常的に。


横尾忠則さんご本人は記事の中で、「自画像」の中に描いた首吊りの縄について発言されています。

『あれを描いたことによって抒情性が入るんです。』

https://www.1101.com/ahoninaru_yokoo/2018-07-12.html
ソース:https://www.1101.com/ahoninaru_yokoo/2018-07-12.html




『抒情性が入る』

小説の中でお母さんがバスローブの紐を首吊り状にして、それを見つめていると少しマシな気もちや落ち着きを感じる事と、横尾忠則さんの「首吊りの縄を描くことで絵に抒情性を加えた」ことは、(横尾さん的には)違うことだろうとは思います。


しかし、しかし。

まったく違う、とも言い切れないなあ、

と感じてしまいました。



横尾忠則さんの絵を鑑賞者として観る私と、小説を読者として読むこの私という視点からは、 死のシンボルによって生の持つ緊張に『抒情』を与えてくれるものとして、 どちらも 『抒情的に』機能していると感じます。


横尾さんの絵としては「極端な意味があるオブジェクト」を置くと絵画的に意味不明になるのも抒情的だし、『自転しながら公転する』のお話の中においては「タイミング的に対象の意味が限定されすぎるーつまり自死を意味するーシンボル」が生きることを癒してくれるという作用(そうなったこと)が、やはり「抒情を与える」に適っているように感じました。 


こうやって絵画や文学の中の「気配」を言葉で説明しちゃうと、せっかく「与えられた抒情」がかなり目減りした言い方しかできないことに自分でも滅入るのですが。


ともあれ『自転しながら公転する』のお話の中でのその抒情ってなんだ、と言うと、「お母さんの首吊りの縄」は、日々を生きる中での「彼岸」みたいなものであり、此岸に開いた風穴でもあり、生と死、苦と楽、我と非我、そういう二元の対立が意味を持たない沈黙の風がかすかに吹き込むのだろうと思います。そして 私たちが無意識に持ってしまう生の緊縛に、呼吸(生きること)の余地を与えてくれるものだと思いました。


と、語れば語るほど、「与えられた抒情」が目減りしますので、このくらいにしようかなと思います。



横尾さんの首吊り縄(ふたたび)



ちなみに私が大好きになった横尾さんの「最近の絵with首吊りの縄」はこれ。アメノウズメが描かれているんですが、タイトルがこれまたいいんです♪

「最初の晩餐」

ソース:https://media.and-art.jp/art-appreciation/yokoo_genkyo/


これが大好きすぎて、いつかこれを「越えた」と自分が感じる絵を描いてやろう、それが壮大な感動を与えてくれた横尾さんへの最大級の感謝の姿勢だ!と思っています、絵描きのはしくれとして。



そんなわけで、山本文緒さんの『自転しながら公転する』の読書感想文でした。


読んでくださってありがとうございます。


ナマステ
EMIRI

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