好きの土左衛門〜情報まみれより本物まみれがいい〜


2023.5.11メルマガアーカイブ


自分のことがよくわからなくなる時代なのかもしれない。


というのも、私たちが日常的に利用することの多いインターネット、SNSでもwebサイトでも、自分の「好き」あるいは「興味を示したもの」に関連するものがどんどん画面上に上がってくる。


過去に興味を示したものを元に、自分の趣味嗜好の傾向をAIに分析され、「こんなんもありますよ〜」「これも好きでっしゃろ〜〜」とオススメにあがってきますよね。


「ああ、これも好きかも」とか眺めていると、なんだか好きなものとか、知った方が良さそうなもの、入手した方がよさそうなものなんかを、ほぼ錯覚とか洗脳レベルで浴びる事になってたりしませんか。


入ってくる情報は自分の好きそうなものか関心を示しているもので溢れていきます。まあそれはそれで便利で良かったりするんですが、なんて言いますか、頭が麻痺してきますよね。




便利は便利でいい、探す手間が省けていい、という時もあるだろうし、そういうものの中には時々「これぞ!」というような貴重な出会いがあったりもするので、なかなか否定はできないのですが・・・


ただ、好きなものや興味のあることが夥しくのべつまくなしに与えられると、好きの濁流に呑み込まれる・・・手足が動かせないほどになっていくように思います。



■オススメによる感覚麻痺攻撃


SNSなんかもすごいですよね。


私はアーティスト友達に、数年前かにインスタグラムのアカウント作ってよと言われて、それは一緒に出演するイベントの宣伝とかで同じプラットフォームを使えたら共有しやすいから、みたいなライトなノリだったんですけど、まあ〜めんどくさかったんですよ(笑)。


ネット上のいろんなところに自分のアイデンティティを作って、上手に使えるならいいのだけどアカウントが増えると手をつけなくなるものも出てくるじゃないですか。そうやってネット上のいろんなところに自分のアイデンティティを置き去りするのって、ちょっとね。ネット上での幽霊部員的な。

まあ、やってしまうものですが。そのうち整理しようと思いつつね。


で、インスタアカウントも作ったけど数年放置したかと思います。イベントの宣伝は結局ツイッターがメインでインスタぜんぜん使わずに終わったりして(笑)。


数年の放置の後に、そっかインスタは写真メインなのねと思い、「じゃあ描いた絵を中心に載せるアカウントにしよ」と思い、ヨーガや講座関連なんかは一切載せない、ただの絵描きとしてのアカウントにしたんですよね。



前置き長くなってしまいましたが、そんなで絵を中心にインスタを使っていたらば、やっぱりそれなりの「オススメ」があがってきますよね。“ああこの人素敵な絵を描くのね”、“この人もいいわ〜”、なんて具合にオススメという名のAIがいい作家さんやアート活動されている方の写真やショート動画をどんどん送りつけてきよる。



実際すごく良いものもある。SNSをやってなかったら知ることはなかった素晴らしいアーティストも見つけたし、とても参考になる絵や興味を惹かれる作品を知れたりして、現在もそれは増え続けています。



ただ、ふと思うのです。好きだ好きだとそういうのを見続けていると、洪水ですよ。自分の手足が動かなくなる。創作の手を動かす時間が減るというだけじゃなく、精神的に手が動かなくなるのです。さて描こうと思った時に、自分の中がとても雑多になっていることがある。あれ、自分はどうしたいんだっけか。なんかいい感じのものをたくさん見て知ったけど、はて、と。意識して気をつけているのであまりないのですが、でもたま〜にやってしまいますね、人間だもの。






■好きの土左衛門


甘いものも食べすぎると味覚が麻痺してきて、そうとう甘いものじゃないと甘さがわからなくなりますね。舌が “ばか” になっちゃってるとか言ったりします。



「ばかになる」というのはよく言ったもんです。扉の蝶番なんかがうまく動かなくなってる時に「もうばかになってるわ」とか言います。正常に機能しなくなっている、ってことでしょう。辞書を見てみましたら以下のようにありました。



【ばかになる】

① みずからばかを装う。 自分の意志をおさえることをいう。

② 本来持っているべき機能が失われる。




②の意味の方ですね。しかし①も該当してくるんだと思います。「自分の意志をおさえ」込んでしまうほど、頭が他人の情報だらけ。何が自分の意志なのかもわからなくなる、よって②の意味の「ばかになる」。



なんでもそうですが、たくさんありすぎるとよくわからなくなる、という脳の混乱(麻痺っぽい感じ、ぼーっとする感じ)があると思います。選択肢が多いことの良さってのはありますが、ありすぎると選ぶことすら放棄してしまったりします。

「いっぱいあるな〜〜〜あはははは(終わり)」って感じに。



現代人の“ネットに接続された脳”は情報まみれで、「好きなものまみれ」であり「自分の狭い興味を刺激するものだらけ」になっているようにも思います。


そうなると「ばかになる」現象が起こるように思うんですよね。
もう、好きの土左衛門ですよ。




「土左衛門」なんて表現はもう若い方は言わないかな。
「水死体」でってことです。



かの夏目漱石が、ジョン・エヴァレット・ミレーという19世紀のイギリスの画家が描いた「オフィーリア」という絵画を見て、「風流な土左衛門」と言い表したのは有名ですね。ここだけ切り取ると漱石は冷やかしてるのかと受け取られそうですが、決してそうではなく、留学先の英国で神経衰弱に陥った漱石の心を癒した作品であり、そのインスパイアによって初期の代表作でもある「草枕」を生んだのです。

私はこの絵が心から好きですね〜。超絶技巧ですよ。
ハムレットの物語の叙情をこんなにも描き表せるとは・・・
凄すぎて言葉を失います。


(Wikipediaより)





ちょっと知らんわその話、という方は、夏目漱石とオフィーリアについてよくまとまった記事もありますので読んでみてくださいね。








■実体験ありき、実体験がキモだと思う


最初の話に戻すと、インスタントに得られる「好き」ばっかりで埋め尽くされると、自分が本当に求める感受や、意思決定の能力が冒されるようになっていくんだと思います。バカになり、土左衛門になる。



だからと言って「嫌い」とか「不快」な刺激に囲まれて己を活性化せよ、とかそういうことではなく、そんなの私も嫌ですよ(笑)。



しかし「嫌い」には「嫌い」の存在価値があり、なんで嫌いなのかをしっかり見つめると、自分というものがよくわかってきたりします。友人から聞いた話ですがある音楽家がこう言ってたそうです。


「どう嫌いなのかを、自分の言葉で敬意を持って説明できなければ、好きなものを語る資格などない。」


と。これは名言だと思っています。



なので、SNSとかwebからの情報で好みのものを知れるのはぜんぜん良しとして、ただバカにならないように、自分好みの情報ばかりをただただ浴びるのは、まあほどほどにして、自分の手足を動かすことを最優先するのが良いんじゃないかって思います。それなしだと、やっぱりバカになると思います。





肝はやっぱり、「実体験が伴うかどうか」というところだと思いますよね。


私なんかは、ネットで好きな絵や作品を見つけることは多々あるんですが、ひとつ「これ」と絞ってみて、模写をしたり、部分的に真似させてもらってからそれを足がかりに自分の描きたい方向に描いていったりしています。


こうすると、好きを通じて知ったものに溺れないでいられる。脳と手足をつなげてあげれば、それなりに泳げる。思ったように描けなくてあっぷあっぷになったりすることは本当に多いのですが、溺れ死ぬところまでは行かないし、頑張ってみたけど失敗という実体験は、もはや経験としての成功だったりもします。何もしないで溺れていることが失敗のような気がしますよね。



そうやって、絞り込んだものと自分の身体を通じて深く関わってみると、新たな地平線が見えたり、休むべき岸を見つけたりする。その時の深い安堵が私は好きです。



私は絵を描くのが好きなので絵画的行為で例えましたが、他のことでも言えることだと思います。ヨーガもインド思想も、その他たくさんあるこの世界から(自然とではありますが)選んで手足を動かしてきました。その時々の「ジタバタ」も、思い返すとそれなりに面白く泳いできた自分が見えたりするものです。






■受身な進化


よく「人は進化しなければいけない」とか言ったりもしますね。


最近はこういう「どんどん前進して行こう」系はあまり流行らないのかもしれないけど、一昔前は「進化」はとても肯定的な意味合いで精神論的に使われていました。




進化。


生き物としての進化は、環境変化+時間で、何千年とか何万年とかの長い時間をかけて起こるもので、宇宙規模で言ったら人間の短い人生でその生物的な進化を感じることは、まあないでしょう。もっと狭い意味の進化や、精神的な進化というものはあったとしても。



じゃあ、精神的な進化ってなんでしょうって思った時、身体的な進化と同じ視点で考えると、心とか知性が環境(時代)に順応して、種として生き延びる可能性の方を選択していくことなのかなと。


でもそうすると、進化ってかなり受身なものだなあと思ってしまうんですよね。社会環境や時代のニーズに体と心を慣らして、繁殖を果たすまではなるべく死ななでいられる振る舞いを選択していく。



なんかちょっと私には完全フィットしない感じ。そういう意味合いでの「受身な進化」には、私は若干の抵抗を覚えていてます。





深くなること、生きること


「深化」が良いなと思っています。



深くなっていく。それは一人の人間の仮に短い人生だったとしても、自分の意志で育み、体感することができるものだと思います。



深くなるって良いことです。年齢を重ねることの良さの、大きなひとつです。若造の頃わからなかったことが理解できるようになったり感じたりできるようになる。あるいは年若くても、そのフレッシュな受容体が受ける深い感受は、この世界に生まれたご褒美とも言える甘い蜜のようです。




人は、いつ何時でも、自分が意識して手足を動かせば、自分の中に深く進み、自己と世界の接触の本当の喜びを掴み取って人生を泳ぐことができると思います。そうやってジタバタしながらでも泳いでいると、必ず「同志」に出会えたりします。夏目漱石がミレーの絵の中のオフィーリアと出会ったように。



現代人の「好みの情報まみれ」生活は、こういった人の魂としての深化を阻害するものだとも思います。恩恵にあずかっている側面もあるのでやはり完全否定はできませんが、脳内情報に溺れて身動きが取れなくならないように、自分の体を動かすことが最優先だと思っています。



コロナ禍でほとほとわかった感じもしますよね。色々なことがオンラインでできる時代になりましたが、やっぱり実際に会ったり出向いたりする事がもたらす体験の深さには敵わないです。



私は美術館や展覧会に行くのが好きですが、ひとつの展覧を観るというだけでも、その日そこに足を運ぶまでに起こった小さな出来事とか、電車の中から見た景色とか、雪が降ってエントランスのタイルに雪がうっすら積もってツルツルで、転ばないように無様に歩いたなとか、それを見て誰々さんが愉快そうに笑ったなとか、本当は仕事の締め切りが迫っててそれどころじゃないのに無理して行ったな、とか、チケットの半券をポケットに入れたまま洗濯しちゃってひどい事になったなとか、悔し紛れに「洗濯物が思い出まみれやん」とかひとりごちたな、とか。


そういう小さな、どうでもいいような色々をたくさん付随させて、やっとひとつの重要な経験を得たりしています。


そういう、どうしょうもない小さな経験をたくさん引き受け、引き連れることこそが、人生と自己を深くしていくのだと思います。






■「本物まみれ」がいいな



夥しい情報に溺れないように、便利がもたらすものは便利止まりにしておきましょう、と思いますね。


それらが助けになることはたくさんあります。



しかし人生の「深さ」を育てるのは・・・悪あがきめいていてもよいから、自分の体で何かすることだと感じます。手足を使って何かをすること、自分で出向くこと、会える人には会うこと、うまくできなくてもやってみること。



長い時間を経ていつか、その悪あがきが、実は興味深い美しさを持った「自分」という作品だと思えるかもしれません。




そして、どうせまみれるなら「本物」にまみれたい。どうせ溺れるなら「本物」に溺れたい。どうせなら実際的な感覚体験でこの世界の風流な土左衛門になりたい。そのように感じます。巨匠の手にかかった質のいい糠に埋まれば、平凡な野菜でもいい漬物になれる!と信じている。


というわけで、いつか私がルーブル美術館とかで「幸せな土左衛門」になっていたら、そっと笑って見守ってください。



読んでくださってありがとうございます。



ナマステ
師岡絵美里

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