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嫌われ松子からの考察その2 生き物としての孤独

その1のつづき


「嫌われ松子の一生」を観て

その2 生き物としての孤独

前回の投稿で映画「嫌われ松子の一生」から、だいたいのあらすじと、映画のひとつの観点である「孤独」についての考察を送りました。


「社会的な孤独」と、「生き物的な孤独」についての続きです。


人間には、社会に属しているというタイプの安心感があるのですが、もっと根源的で本能的な感覚で「生き物」としての安心感というものがあるのだろう、と。


松子の感じた「ひとりぼっち感」は、生き物的・本能的な孤独が大きかったのではないかと思うのですね。


「生き物」といっても生物全般ではなくで、昆虫などの生き物はまた別の感覚で生きている生物として、主に人間や動物などに共通するところで話しています。


それを満たしてくれるものがなんなのか、というと、もう一言に「肌感」だと思うのです。身体に触れ合っていることで満たされる“生きている”実感”。

結局、社会的な安心以上に、こっちの「肌感」の方が「生き物」としての孤独を癒してくれます。社会的孤独は感じていなくても生き物的な孤独を感じている人というのは多いのではないでしょうか。または、社会的な孤独を埋めるために生き物的孤独を満たしてくれる関係に依存してしまうことも多いと思います。松子の場合は人生これからという時に社会的に「まっとうな道」を外れてしまったこともあり、それ以降は生き物的孤独を埋める道に没頭してしまいます。ダブルですね。



松子の一生を観て、共感でも否定でもないなにか、言葉にならない「そうだよね・・」という思いがじわじわと湧いてきたのは、松子が終始この「生き物としての孤独」を埋めようとして「誰か」を求めていたという姿だと思いました。行くところまで行って「もう死のう」と思っていたにもかかわらず、声をかけてくれた通りすがりの優しい男性とすぐに関係を持って「これだ!」と感じてしまう。松子は「人肌」から得られる生き物としての安心に常に引っ張られていたのだなあ〜と。


そして松子の特徴的な姿は、まだよく知り合ってもいない男性に自分のこれまでの身の上話を長々と詳細に話してしまうところ。知ってもらうことで満たされるという条件も松子には重要で、人生の終盤、最終的に社会的孤独を選び、呑んで食って寝てゴミ屋敷に暮らしても、最後の最後まで「(誰かに)私のことを知ってもらう」ということに執着し続けます。

最後その矛先が「光GENJI」にまで抽象化されるという(笑!!!)。ここでもまた共感でも否定でもない「なにか」に胸がいっぱいになりました(笑)。

(しかも光GENJIの「内海光司」に設定したあたり、原作か脚本かわかりませんが、すばらしいセンスを感じます。他のメンバーじゃだめですよw内海光司が最適な人選です。って、私より年下の方はこの話題わからないですねwww とにかく内海光司にしかない「松子が夢中になる要素」があるように思ってしまった私は、まんまと演出にハマってますねw)


松子はラスト、内海クンに自分の生い立ちを詳細にしたためた長い長い長いファンレターを書き、投函します。しかし返事は来ません。来ないことにまた憤慨し、発狂します。


「リアクション」があることが大事。


松子は社会的にも人間らしい人生という意味でも堕ちるところまで堕ちますが、それでも「誰かと関わりたい」と思っている。観ている側はその心理にもう腹パンチ的な「いたたまれなさ」を味わうのですが、この映画はそのあたりを全てコミカルに描いていて、他の登場人物の視点などで「明るさ」「希望」「なぐさめ」もちゃんと与えてくれているので、そこまで悲痛な気持ちにはさせない映画なのですが、それでも後からじわじわ来ます、

松子・・・・・

と(笑)。


続きはまた・・・(まだあるのですw)


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