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昭和のおじいちゃん的瞑想境地の獲得


サイトから配信のメルマガコラム(2022.4.24)のアーカイブ


昨日、ひとつメルマガ用のコラムを書き上げたのですが、今日になって読み直したら、駄文。戦争に対する思いだったのですが、客観的に書いてるつもりが個人的なカタルシスが変に混ざって隠し切れていない(どうせなら個人的な感傷でも出し切ってぶつけてみろよ、と自分で突っ込みたくなる)かっこ悪い文章だったので、こりゃダメだな、と思い削除しました(笑)。こんなの読んだ人が混乱するわ、と思いました。


ただ、それだけ戦争について考えている自分を受け止めることはできました。問題にはいろいろな側面と複雑な理由が絡み合っていますが、そういうのを取っ払わせてもらうと(取っ払えないから問題なんだけど)、ただただ、人が殺されていくのが嫌なんだ。どうにも嫌なんだ、という思いです。要は人が当たり前に持っている本来の嫌悪感を、変に後ろに引っ込めている文章に自分で違和感を感じた次第でした。


文章を書くという行為は、自分の中で整理し切れていないものが書くことで整理されて、自分の頭の中を理解していくというようなプロセスもあり、それが有益な場合もかなりあります。セルフチェックみたいな感じに。


でもこれはある種の「排泄」的な行為であって、多くの人が読める場所に公開するならば、考察を重ねて、表現的にも整理しないとあかん。それでもまだまだ「自分の思うところです」というスタンスにはなってしまう。でないと読んでくださる人にとって「通りすがりにわけわからないものを玄関先においていかれて引いたわ」みたいな事になってしまう(笑)。


そう、排泄文はそのまま大勢の人に読ませるようなもんじゃない。
友人や家族など気心知れた仲での話とか、カウンセラーさんに心の中にあるものを吐露するとか、そういった「了解」がある状態を別として。


ただ排泄は生き物にとって必須の生理現象なので、しないといけない事でもあります。個人的なスペースで(笑)。公開するなら「これは排泄です、お見苦しくてすんません」ということがわかる形で排泄するのがせめてものエチケット(笑)

しかしそのような了解もなく排泄的に言葉を垂れ流しているのも、現代のネットの世界の一つの特徴だとも言えそうです。みなさん、ネットで頭の中が他人の排泄物でいっぱいにならないようにお気をつけください。私も変なもの垂れ流さないように気をつけます・・・


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■瞑想中にも起こる?

話が「排泄」に赴いたので、ちょっとヨーガと絡めて話します。瞑想をしていると、意識の中で「排泄的な」動きが起きたりします。特に瞑想を始めたばかりの段階だと起きやすいし、そこを通るのが「普通」かも知れません。


目を閉じて瞑想しましょうと構えてみると、いろいろなことが浮かんできてしまいます。ここで起きていることは大きく分けて2通りのことが言えます。

ひとつは、目を閉じて静かにしようとしても「感覚機能」が活発に動いている、という状態です。


私たちの体が持っているいわゆる五感と言われる感覚機能のことを、インドの言葉で「パンチャ・インドリヤ」と言いまして、パンチャが「5」、インドリヤは「能力、機能、器官」などの意味があります。仏教用語の「根」に当たります。


目を閉じても眼球はまだヒクヒク動いたり、皮膚で感じる刺激に意識が赴いたり、聞こえてくる音に聴覚が反応したり・・・というような。外部からの刺激に反応するのが五感の仕事なので、目を閉じたからといって同時に機能をオフできるわけでもないのです。


ここへの対処としては、瞑想に素早く集中したいのであれば、なるべく外界からの刺激が少ない状態を用意して瞑想に入るのがベストです。直前に味のあるものを食べたり飲んだりすると、舌に残った刺激物で味覚は機能を働かせますし、体を締め付ける衣類とかも普段よりも気になってくるものです。匂いなんかもう、絶対反応しちゃいますよね(笑)。 そして、周りで人がおしゃべりしていたり、音が雑多な環境では瞑想しにくいのは当たり前です。

五感が暴れないような環境はヨーガ練習には非常に重要です。



もう一つは、普段の意識が働かせている「規制」が緩んで、普段は思い出さないような記憶とか思考との接触が起こり、それにまつわる感情がもやもやと動き出し「私意識」が強まることです。普段は抑えられていたものに抑えがなくなり、自然と浮き上がってくる感じ。


「規制」というのは。
ヨーガの心理学的な理論では、個の意識はこれまでに経験したすべての記憶を保管していると考えるのですが、それらをすべて常に思い出したり感じ取っていたら大変すぎるので、日常生活、あるいは生存を維持していくために必要な記憶や思考方法だけを手前に置いておき、それ以外のものは奥の方にしまっておいて、むやみに顕在意識に上がってこないようにしておく、という感じです。


その規制が、瞑想をすると緩みます。お酒飲んで酔っ払ったりしても起こりますが、酔っ払ってるときは顕在意識も酔っ払ってるので気になりませんし、むしろそれらとぐちゃぐちゃに絡み合ったり持ってかれたりして気分良く支離滅裂になれるのですが(笑)、瞑想スタート時は「しらふ」の状態で規制緩和が起こるので、なんじゃこりゃ、となるわけですw
すごい説明。


「私意識」と言ったのは、「今現在の私」という感覚を便宜上そう呼ばせてもらいました。本当はそんなものはないのです。瞑想は段階を追ってこの「私意識」という錯覚から離れていき、本来性の自己まで到達しようという試みです。が、普段は錯覚であってもそのような基点を置かないと「今現在の私」を保つことができないので、心理的な機能の一つとしてそこに自己感覚を依存させています。


瞑想をし始めてもこれが依然として機能をし続ける場合も多いです。体質的にこの感覚をすぐに放棄できる人もけっこういますが(あまり思考をこねくりまわさない素直な人♪)、初歩の段階で瞑想が退屈かつ難しく感じるのは、この錯覚の自己意識がなかなか緩まずに次の段階に行きにくい、という場合が多いと思います。


この規制緩和の中で、いろんな記憶(それはヴィジョンであることもあれば、感情的なものであったり)の錨が外れて、キャッチできる意識の領域まで浮遊してきます。


それらの浮遊物的なものは、仮に上がってきても無害(影響力低め)なものもあれば、出てこられると不快あるいは快に感じるもの、特定の感情を刺激するもの、影響力高めなものがあります。それらは「私意識」保持の都合上、抑え込みによって「循環」を絶たれていた心理的物質で、規制緩和によって再び動きまします。


この時に「循環」=「排泄」できちゃうとスッキリするのです。


「出てこられると処理や対応がめんどくさい(あるいは都合悪い)から奥の方にしまっておこう」と溜め込んでたやつがうまく流れてくれると、「私意識」自体が一段階深い静けさを得ることができます。


■ただ成り行かせる・・・

それで、ここで言う瞑想の中での「排泄」ってどういう感じかというと、浮上してきたものたちを「そのまま成り行かせる」という感じです。


いろいろ浮かんでできてもそれをどうにかしようとせず、その辺の見えるところにいてもらって構わないので呼吸を続けることです。


さらに「呼吸」そのものに大集中していくとヨーガでの「プラーナーヤーマ」という調息テクニックになっていきますが、いきなりそこまでテクニカルにしないで、「ただ成り行かせて呼吸は続ける」というプロセスにも利点があると私は感じています。


私はこれを「昭和的おじいちゃんの境地」と呼んでいて、庭で遊ぶ孫や子供たちをそのまま好きに遊ばせ、自分は趣味の囲碁とか盆栽とかやってる感じ。囲碁や盆栽に向かい合いながらも、子どもたちのことは同じ空間の中で把握している感じです。

核家族中心になる前の日本の風景っぽいでしょ(笑)



「呼吸に完全集中する」というテクニックもヨーガ(瞑想)にはありますが、これまでのたくさんの人たちと瞑想を共にしてきた経験からわかったのは、テクニックとしての調息法だけではなく、呼吸への集中の度合いを60〜70%くらいにとどめて、意識の中で起こることも認識しながら「そっとしておく」「握りしめない」という状態に慣れていくと、普通の生活の中での応用がしやすい、という事です。


通常の生活の中で私たちは小さな事で感情的になったり、こだわって窮屈な思いを自分で味わったりするものですが、完全集中じゃなくてもいいから意識の半分くらいでも呼吸の方に誘導できると、しがみつかないでいられるわけです。


印象(記憶)に心を持って行かれたり、さらに握りしめることをやめてみると、印象たちはだんだん影響力を失っていきます。記憶という心理的物質は分解されて、広大な意識の中の大地とも言うべき心そのものに吸収されていき、それを持って「排泄」とします。


■記憶は、結局なしにはできない

と、言うのもインド哲学の理論だと、基本的にすべての「記憶」は完全になくなっちゃうわけではなく、「私意識」がそれに対立したり、しがみついたり、抑圧したりするのをやめることで無影響化するというところが、「心」としての落とし所となります。


記憶を消せちゃったらいいのですが、それはすんごい高度な瞑想境地の「止滅転変」っていう特殊な状態があって、これは話すと長くておそらく一般的に意味不明なものとなるのでやめときますが、そこまで行くのにすんごい瞑想を積まないと行けません(笑)。なので記憶を抹消しようとは思わずに、無害化して自然に還すという感じを持って排泄とします。


「自然に還す」ってどういうこと?と問うならば、「私意識」の束縛から記憶を解放してあげることですね。ここから先は、実際の瞑想の中で体験するしかないので、日々の心の健康を保つためにも瞑想をしてみてほしいです。


瞑想って、生きて行くうえで必要なものだと感じます。

現実を、そして世界での出来事を「見て」「考えて」行かなければいけない私たち。しかし開いた目が曇ってたら見たって意味がないどころか害になります。


瞑想をして意識内の浄化を日常的に行うことで、だんだんと「記憶」に頼った目が洗浄され、クリアになっていきます。


今日は排泄つながりで、瞑想のお話をしました。
ぜひ、昭和的おじいちゃんの境地をやってみてください。


ナマステ
絵美里


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