自分の知っていることだけを探していないか〜「わかる」ということへの考察〜


*この記事は私のサイトから配信しているメルマガ記事のアーカイブです。


春の日差しがだんだん勢力をましてきた今日この頃です。
気温も上がったり下がったりな時期ですが、いかがお過ごしでしょうか。


今月は「インド史」の講義をしています。


インド思想という広大な領域を、高いところから俯瞰しながら、その時扱っているテーマにピントを絞り込んで見つめていく。そんな知的冒険をこつこつと実施しております。


「インド史」の講座には、先月の「インドの輪廻転生」の講座を受けてくださった方のリピート受講の方も多く、継続して学ぶことでバラバラだった知識がつながっていく感触を得てくださるのがこちらにも伝わります。それは本当に感動的なことだなあと思います。


「わかる」というのは、ある定点での観察だけでは進まないところがあり、そのお題の周辺事情とか背景、また時間経過の中でのいわゆる「文脈」をよく観てみることではじめて「あ〜そういうことだったのか」という客観的な合点がいきます。

ヨーガ哲学をお伝えしていてある種「難しい」ところは、取り上げている題目に関しての「周辺事情」や「文脈」がかなり深く濃厚なので、そこまで説明する時間があればいいのですが、ない場合は切り取ったかたちのような渡し方になりがち。そうなるとどうしても受け取り手が「ほしい」かたちに変換されてしまったりするものです。


というのは具体的には、人って、

「自分が(すでに)知っていることを探す」

という傾向があるからです。

例えば、「ヨーガ・スートラではこういうことを言っています」と、ある部分を渡した時に「ああそれはこういうことね」と自分の知っているものに置き換えて納得しようとします。

ヨーガ・スートラに「サントーシャ」という教えがあり、和訳してしまうと「満足」とか「知足」というような言葉にどうしてもなってしまうのですが、その「満足・知足」は日本語感覚の意味合いや、その人個人の中のすでに知っている意味に置き換えらることが多いのですが、そうなるとヨーガ・スートラで言っている「サントーシャ」とは離れてしまったり、場合によってはぜんぜん違ったりします。

今はそれ(知っている事との置き換え)をしないで

「まったくもって新しい(知らなかったこと)として受け止める」

というスタンスが学ぶうえでは非常に大事です。


また、聞き手が感情的にならないように、ないしは、当初感情的に入って来ても、その感情をちょっと鎮めていただいてから聴いてもらうという前準備みたいなものも必要だったり。


感情的というのは「怒っている」とか「悲しんでいる」とか「喜んでいる」というような、自分自身も外から見てもわかりやすいものじゃないことが多く、

「私はこれこれこういうものを求めているのだ」

という期待の感情です。

実際はその期待の背景に実は、その人の中の「日々の怒り」や「日々の憤り」「ずっと持っている不満や欲求」というような根深いものがあったりもしますが、自分でもそんなものが自分の思考を狭くしているということになかなか気づけないものです。


人はみな、自分の持っている心理的な癖を叶えるかたちで「納得」がしたいのだと思います。


知らないことって怖いので、知っていることをまた知って安心したい。

ですので、新しいことを学んで自分自身の価値観を刷新するという高度な癒しと精神の解放がある絶好の機会にも、「すでに知っていること」を知ろうとして、その機会を逃してしまったりします。


五感に直結した体験だとそれはあまり起こらないのです。
ー 例えば初めて食べる外国の味付けの料理を、慣れ親しんだ日本の味噌汁として味わうことはあまりできませんし、熱いものを冷たいとして触ることもできない・・・(すごい催眠術とか洗脳にかかっているなら別として。)ー


ですが「知識」とか「思考」という土俵になると、それができちゃうんですよね。


意識していないと、ほとんどことを「知っていること」に置き換えたり、知っている要素を探したりします。

なぜか。


前述のとおり、知らないことって怖いので。


表面的にはその恐怖は自分では察知していないのですが、深層の方にある「知ってることの範囲で安全に、感情を脅かされずにいたい」という気持ちがあるのだと思います。


この「知っていることを再度探す」「怖いから自分の知っているものに置き換える」という心理を手放すことができると、学びの機会からより多くの精神的自由を得ることが可能になり、そしてそれは幸福感の増大でもあります。

価値観があるところで更新されずに、既存の信条だけを使って物事を見ていると、どうやら人間は心が狭くなっていくようです。


そして狭くなった心というのは、経験する物事のなかに真の喜びや自由を感じる余裕がなくなっている、ということ。


重ね重ねになりますが、

学びとは、自分自身の価値観を刷新するという高度な癒しです。

そして精神を解放する絶好の機会です。


じゃあどうしたらいいかというと、


水面下で起こってしまう「知っていること探し」をしないように注意しながら、今学べることにまっさらに向かってみる。

そういう心理的態度があるだけでもかなり変わってくると思います。


実際にはすでに知っていることもあったりするのですが、それでも「新しいものと出会うような」気持ちでそれに向かってみると、知っていることですら「新しいなにか」を教えてくれます。

『毎日、初めてヨーガを練習するような気持ちで練習しなさい』とヨーガのグルも言っております。


日常的なところでもそういった訓練はできます。

人と話したりする際に、

「もうわかっている」という態度で話を聞いたり

「それってこういうことでしょ」と話を切って結論づけたりするような

そういう心理(せっかちさも含めて)が出ないようにしてみるといいと思います。

かく言う私も気をつけています。

特に子どもの話を聞いたりする際にやりがちなんですよね。
子どもよりも長く生きている分、予測できる事というのもあるのは確かなのですが、それだけじゃないわけです。

「その時」「その事例」においての彼らの気持ちとか、事の文脈というのがあり、そこをすっ飛ばして「ああ、こういうことでしょ」みたいに決め込んで話を聞いたり遮ったりしてしまうと、なんて言いますか、コミュニケーションとしては雑なんですよね。

 そして雑に扱われると、誰だって傷つく。

親子、家族、職場の人など、普段よく接している人との関係で起こりやすいことだとも思うので、ここは要注意ですね。


学びの機会には、あえて自分の価値観や既存の思想をぶち壊してくれるものを選んでみるのもいいです。知らないことを「知らないこと」として学びに出かけましょう。その先には心の解放が待っています。


今年からの新しい活動としまして、漫画家の山田玲司先生のオンラインサロンの中で、「初めてのインド哲学」という対談コーナーに出演させていだいています。


玲司先生はまさに「知らないこと」を「知らないこと」として全力で受け止めてくれるんですよね。


それっていわば「若さ」だと思うのです。本当の意味で学べるということは心が若いということで、逆に、自分の思考の範囲から出ないでいると年齢関係なく若さを失っていくのです。見た目も老けていきます。


玲司先生はTwitterでもこの対談について「常識のいくつかがぶっ壊される」とコメントしてくださっていて、思っていたことと違う真実を喜んで受け入れ、自分の知っていたことや考えと違ったという点についてはなんの執着もせずに、知ったことそのものを幸福・幸運と感じてくださっているのが伝わってきます。
こちらも話していて非常に幸せな対談です。
こういう対話はお互いに生命力が上がるエネルギー交換なのです。

学ぶことをやめずに、そして学ぶうえでの心理的な態度を解放すれば、ずっと心は若く、そして未熟という意味で本当に若かった(愚かだったとも言える)過去の自分すらも癒されていくのです。

というわけで、長くなりましたが・・・


学べるという幸運を大切に、その機会が与えてくれる最高の効能を受け取るには、


知っていること探しをやめて

自分の思考から出て行く冒険に出かける

ということですね♪


最後まで読んでくださりありがとうございます。



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