嫌われ松子からの考察その3 光を頼りに生きよう
その2のつづき
私の感想としては・・
映画なのでシリアスなテーマも極端にそしてコミカルに描かれているとはいえ、「孤独」は人の心にとってとても「怖い」ものだと思います。
ずっと一人でいるより
どうしょうもない人でも誰かいるほうがいい・・・
松子がそう思ったように、孤独をかりそめの幸福で埋めようとします。
(一般的に)それすら埋められないと自暴自棄への道筋ができ、そしてコミュニケーションの不足は人間の感受性を暗く狭いところに閉じ込めていくのだろうと思います。
孤独を怖れる心理というのは、原始の時代から人と人が共存して自分の命を守るという本能レベルでの意識が根本だと思うので、ほとんどすべての人が持っているものだと思います。ヨーガ・スートラ第二章にも「アヴィニヴェーシャ」という言葉で「死への恐怖(=生への執着)」として出て来ます。これは賢人ですら持っていて脱しがたいものなのだ、という経文とともに。
孤独感というのは、元気がある時はまだそれを埋めてくれるものを得ようとする「欲望」として作動するのですが、その願いが打ちのめされて元気がなくなるところに行ってしまうと、心の機能自体を閉じていくのだなと思います。自暴自棄になっているうちはまだ元気な段階で、その先に進むと「何者とも関わらない」とし、興味を持たないように心を閉じ、そして鬱になったりしていくのだと思います。(そういう意味では松子は最後まで「内海クン」への熱烈な執着があったので、ある意味元気だったのだと思います。)
昨今「自殺」の多さに、言葉にならない思いを抱くことが多いのですが、自殺というものが「本人の選択」だと言われている側面に、私は少し疑問を感じます。
自殺というのは、心の機能が閉じていく段階で起こるある種の「症状」であることの方が多いのではないかと思っています。
「自殺するぞ」
と明確な決心で「選ぶ」というのは、実際には少ないのではないかと。
三島由紀夫や乃木希典のようにはっきりとした意志を持って自決するというのは稀で、彼らの場合は心というものが最後まで自覚的な強さを持ち、意志と意思を持って自決しましたが、しかし心を病んでしまいその行動に赴いてしまった多くの自殺者は、意識的に「選ぶ」というよりも、心が「その段階」に入ってしまって、毎朝普通に出かけて電車に乗ったり、慣れている仕事をこなしたり、毎日行なっている家事をしている時の手順のような、いわば何もあらがっていない「流れ」の中で、死への動作に入ってしまうのではないかと。いつものように階段を登って二階に上がって、なんの遺書もメッセージも残さずに自殺してしまった女優さんのように。(本当のところはどうだったのか知りえませんが・・・)
彼女、彼らが、なんで死んでしまったのかはもうわかりようがなく、どんなに推測してもそこに返答は得られません。
書いていると非常に悲しい気持ちになってきますし、面白い映画のレビューのつもりが最後この話になってしまい暗い気持ちにさせてしまっていたら申し訳ないですが。
何が言いたかったかをまとめると、「心に侵食しているもの」に気をつけて、ということで。
自分で何かを選ぶよりも、心を侵食しているものが人生を方向づけてしまうことが多いものです。それを「選択した」と思っているのは自我の錯覚なだけで。だから自殺の場合、「自死」と言ってもその「自」とは果たしてほんとうに「自分」だったのか。事が起こってしまったあとではもう確認ができないことが、生きて残されている私たちを苦しめ、あるいはすがる気持ちを託すところにもなります。
子供と接していても思うのですが、まだ心が柔らかく、周囲の雰囲気を自分の考えだと思ってしまいやすい子供は、ネット上で得られる社会の雰囲気や流行している考え方、大人たちに与えられた言葉に心を侵食されるのが簡単です。まだ自分の意思を持ちきれていない子供には、やはり真実とともに「明るさ」や「希望」を示して、そっちの雰囲気が大きい状態に舵取りをしてあげないと、ゴミみたいな情報から得るどうしょうもない思考、負の雰囲気、過剰で雑多な他人の思いに飲み込まれてしまいます。大人も、きっとそう変わらないですよね。
いつも思うのですが、正気を保って普通に生きていくということは、本当は大変なことで、その正気を保っていられるのは「幸運」とも言えるくらいな世の中だと思います。
あらがえないほどのなにかしらの雰囲気が心に侵食し、そして活動することや生き永らえることの魅力よりも「その雰囲気」のほうが優勢になってしまうと、思考して選ぶ心の機能も閉じてしまい、「動作」がごく自然に「死」のほうへ赴いてしまう。「死」まで行かなかったとしても心の闇の方に行ってしまいます。自分で選ぶというよりも、そういう流れの方が多いのではないかと思います。
ちょっと話がずれましたね、かなり深刻な問題のほうへ。
戻します。
松子は最後の最後で、「社会的な自分」への小さな光を取り戻します。
わたし、まだいけるかも、と。
「生きていこう」とすることというのはつまり、光を頼りにすることなのではないかと思います。
この映画の「松子」は、愛せる人、自分をわかってくれる人を求めて最後まで生きました。そして自死もしていません。とても不器用で不運な人生なのですが、彼女自体は終始輝いていたように思います。
かりそめの愛でも誰かを信じたい、全身で信じる、というのは非常にパワーのいることです。最後の最後でもう一度「自分」にその光を向け、可能性に心が開いたのも、彼女の根本的なパワフルさゆえなのだと思います。
物語のプロセスにおいては、「あ〜あ〜、松子・・・」と思うところが多いのですが、しかし結局鑑賞後に残った感覚は、散々な人生を送った松子の物語にもかかわらず、けっこうスガスガしい風景でしたね。
もちろん別の感想もあると思いますし、ラストに落ち込んでしまったり、いたたまれない気持ちになったりする人も多いと思いますが、個人的には希望的に見届けられるものでした。
それはやっぱり、松子が最後に見た「自分という光」のおかげのような気がします。
以上、「嫌われ松子の一生」を観てのいろいろでした。
映画が好きなので、また映画からの考察を書きたいと思っています。
長文お付き合いありがとうございました。
光を頼りに生きよう。
EMIRI
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?