見出し画像

ブラフマン〜引き算の果てにいる私〜


メルマガのアーカイブです。


今月に開催する「インド哲学勉強会」で取り上げる内容の序盤に当たるところをちょっと紹介しようと思って、宣伝もかねて書いたんですが、宣伝なのに書きすぎるといういつもの癖が大幅に出ました(笑)。ナウシカで言ったらジルが殺されて、怒りで我を忘れたあたりまで書いてしまった感じかな。


ま、いいんですよ、ナウシカもそこまで見ちゃったらもうやめられないでしょw そしてそのあともまだまだ盛りだくさんじゃないですか。


いつものごとくざっくばらんに書いてますので、楽しんで読んでくだされば嬉しいです。



9月の勉強会のテーマは、

『ブラフマンを追いかけて-存在の根源をめぐるインド思想の多様性』

です。


「ブラフマン」っていうよく分からない単語が出てくるだけで、あ〜もう無理と思う人もいるかと思いますので、これ以降インド思想の固有名詞をあまり使わないで書いてみますyo !!



「自分」なるものの起源や本質、なぜ存在するのかという問いを持つことは、世界中の多くの文化に見ることができます。インドの昔の人達も、『自分』ってなんだ?というところは大きな関心事でした。


時は紀元前1000年頃、段階的にインドに侵入したアーリア人は、バラモン教という信仰をベースにした社会を作りました。(日本は縄文時代ですね。)


(今日は「自己存在への問い」に関するところだけ抜き出してざっくり書きますと、)


■すごい言葉で神々を動かせ!

バラモン教の初期の頃は、 『満たされる自分』 が意識されてました。 神々と交信して願いを叶える事に夢中って感じです。


ここで言う神々というのは、人格神ってやつで、自然現象を神格化したものがメインです。


これは現代の写真ですが、こんな感じで祭火に色々なものを供物として焼べて神々を呼び出し、願いを伝えます。

画像1


(出典:https://4travel.jp/travelogue/10037144)



それでバラモン(司祭)たちは、神々との交信を可能にするのは

『すごい言葉』

としたんですね。


バラモン教を打ち立てたアーリア人は、もともとが詩に卓越した民族で、神々を讃える美しい詩を奏でることで神を喜ばせ、恩恵を得ると考えました。


そうやっているうちに『すごい言葉』は神々をも動かすってことで『呪文至上主義』になりました。なんだか現代のゲームやファンタジーの世界のようで楽しそうですね。実際ノリノリだったんじゃないかと思います。



『すごい言葉』というのはマントラと呼ばれ、神々を支配し働かせる力を持つとみなされていきます。この世界で最強に強いものは「言葉」だ、と。神々とは「自然現象」なので、それを操って現実を変える。すごいですね〜〜。


(ほんとにそんなことできたのか?と疑問に思うかもしれませんが、たぶんある程度できたんだろうと思います。その根拠はまた。)



■新たな流れ、原理が知りたい人々は瞑想へ

呪文に魅了されるバラモンとそれにあやかる人々、という構図が主流の中、時代がちょっと(100年とかそんくらいづつ)下るごとに、だんだんと「違う思考」の人々が出てきます。


『すごい言葉』が持っている『現実を変えちゃう力』ってやつに関心が高まっていきます。「原理」の方に惹かれていくんですね。


お願いしたり叶えたりする事よりも『すごい言葉が持つ霊力』あるいは『力』そのものを、「それってなんなんだ?」となり、「実はそれが絶対的な神なんじゃないか?・・」ってなっていきます。

「それを知りたい」という探求の時代に入るんですね。


しかし「言葉」も「力」も目に見えません。

「じゃあおいらも目ぇつぶりまーす」(ぴろゆき風)

って感じで、見えないものを見るために彼らは「目を閉じる」をことを開発します。目を閉じて、大集中です。これが「ヨーガ」という精神統一状態、瞑想ですね。今流行りの「ヨガ」は体を動かすのがメインですが、「ヨーガ」のスタートは「目をとじて大集中」です。

すごい前衛的ですよね!

だってそれまでのバラモンたちは、火をたいて、華々しく「すごい言葉」を唱え、神々を呼び出すというすごいパフォーマンスをかましてんですが、

一人で、座って、目ぇとじちゃう!

わけですよ。この時代の感覚で見てみると、あいつなんかすげーー、みたいな存在だったのでは。


かくしてその後も、儀式と言葉で神々を呼び立てて、現世御利益を求めるというバラモン花形スタイルも根強く残るのですが、一部のインテリな人たちは瞑想のヨーガに没入します。そして瞑想の達人も現れ始め、儀式中心の僧たちとは一線を画していきます。
だいたい紀元前800年から700年あたりの話です。
(ブッダとか孔子とが現れるちょっと前の時代ですね。)


それでこのあたりから、

「すごい言葉の霊力」のことを 「ブラフマン」 と呼び始めます。



■瞑想で見つける真理

パフォーマンス型バラモンをよそに・・・

瞑想をして、その「力」の「原理」を感得しようと追求する人々の中からは、優れた哲人も現れます。


その一人がシャーンデリアっていう、なんだか照明器具みたいな名前の瞑想の達人が出てきて、瞑想の中で真理を感得し究極の奥義として語ります。

(おそらくシャンデリア(照明器具)の元であるラテン語のCandereと親戚かなと思います。そのまんまですもんね。サンスクリットで月(輝き)のことをcandra(チャンドラ)と言いますが、同系の単語かと。シャーンデリアは、光とか灯火っていう意味合いのお名前なんじゃないかと思います。日本だと・・・照男? とか?w また話が脱線。)


照男、もとい、

シャーンデリアさんは、

『自己とは、究極的な一切者と同一であ〜る』

と言います。

梵我一如(ぼんがいちにょ)ってやつです。

梵(ブラフマン)と我(オレ)、同じ

俺=ブラフマン

と。


すごーーーく平易な言葉でいうと「自分の本質は神」ってことで、ここで言う「神」と言うのは、最後に審判を下すような神でも、お願い事を叶えてくれる神々でもなく、ここを話そうとすると途端に言葉の抽象度が上がって申し訳ないのですが、「一切」なんだと。


 は?一切ってなによ?


ってなりますよね(笑)。

そうなんです、なっちゃうのです。


ブラフマンは言語では言い得ないものなので、聖典の中では伝統的に「それ」とか「彼」と言います。


「私は ”それ” である。」


ほんとうかなあ


頭かかえちゃいますよねw

この辺りから普通の人は、

あ、いいやインド思想、もういっかな、

インドカレー食べたいかな・・・ 

となると思います。


いいんですよ、それで。

ここで離脱する人は、きっと人生うまくいってるんですw

また人生がこじれたらぜひ戻って来てください、きっと「それ」って表現する「味わい」にだんだん惹かれてくると思います。




■ブラフマンを言語化するという無茶を承知で


ブラフマン。


あくまでも(悟っていないけど)私の感触で言いますとね、


「極限まで引き算していったら、最後には全てだった」


というような感じです。


(ますますわかりにくいかなwでも言い得ているんじゃないかなって自分では思ってます。)



足し算の自分/引き算の自分


普段、私たちは「足し算」的な思考方法で「自分」というものを意識しています。


体+感覚+体質+感情+経験+所有物+関係+・・・
なんて名前か、どこにいるか、何をしているか・・・


という感じに、果てしなく加算される「条件の総体」を自分だと思っている。


「車を持っていない」とかそういう「ない」条件さえも、「”車を持っていない”を持っている」という加算になります。欠乏感すら「欠乏という感」を加算してます。


こういう条件を、全部全部、引き算していきます。


幸福感も?


はい。幸福という感覚も「心」という条件のひとつの現象なので、ここでは一旦離れます。

「幸福感」という段階でそこに留まる、という瞑想スタイルもありますが、スペースシャトルブラフマン号は、それも離脱させます。


体も、記憶も、心というものも全て引かれると・・・


そこに残るものが「それ」であり、それにはそもそも名称がない。なぜならそれは「条件」ではないから。


言葉の世界では、何かを指し示すのに名称がないと永遠に指し示せないので、みんなで指し示す用に「it」みたいなものとして「ブラフマン」と名付けられたわけですが、真理を知る賢者にはそのような名称付けそのものがブラフマンではない、ということも大前提なわけです。

だから代名詞で「それ」と言うのは、もっともなんですね。




■ちょっとやってみよう、引き算の果ての私


とまあ、このあたりが、インド(古代アーリア人の思想)における「自己」ってなんだ、という探求のスタートなんですが、ここからインドは非常に豊かな自己観、世界観を育てていきます。


読者の皆さま方は、試しに一緒に観じてみてください。


可能な限り、自分の条件を引き算していってみると、そこにな何が残る?


目を閉じて自分を誘導してみてください。

普段自分が「これが自分」と思っているものを、

「ただそこに、たまたまある現象なだけ」

と思って、離れていってみてください。


スペースシャトルが、打ち上げ時に使ったブースターやらエンジンやらを切り離して、どんどん地球から遠ざかるみたいに、どんどん剥がして、離れて。


できる限りの「自分だと思っていた現象」から離れてみると・・・


どんな感じがしますか?

どんな景色が見えますか?




そして、今度はまた「足し算」しながら戻ってきてみてください。


その足し算の際に、「これ、本当に足す(持つ)必要あるかな?」って、考え直しながら、条件の世界に帰って来てみてください。


この「足していった条件」のいろいろが、私たちを快にも不快にも、喜びにも苦しみにも赴かせます。

そんでそれらの「人生いろいろ」が、輪廻(死んでもまた生まれ変わって条件の自分を繰り返すこと)の原因になるっちゃ、という輪廻思想の話に展開していきます。




■ぼちぼちやってます。


さて、結局「講座の宣伝」でこんなに話しちゃっていいのか?ってくらい満々に書いてしまった感がありますがね(笑)

いいんですよ。

叡智は、配ってなくなるような消費物じゃない。

受け取れるか受け取れないかがあるだけです。

勉強会、行ってみたいけど行けないなって人もいるかなと思ったので、書きました。



ご興味があり、ご都合がつくようでしたらインド哲学勉強会リアル参加もお待ちしています。まずは講義形式でお話していき、後半はみんなでどう思うかを考察&対話する、という、わりと変な人の集まりだと思ってます。

でも、一般的な「普通」を装わずに、本性である「偏ったことに興味を持って心躍らせる」という自分そのままでいれる時間ってのは本当に幸せなんですよ(笑)


だっておもしろいじゃないですか。

もしあなたが家を出る時に、家族とかに、どこに行くのか聞かれて、

「うん・・・今日は、

”それ“ についてを学びに行ってくる。」

とか言ったら、もうそれだけでウケるじゃないですか(笑)。

はぁ???ってなる家族を後に、家を出るのです。


シャーンデリア照男先生だってさ、ぜったい変人だったんだと思うよ。



興味がある人はサイトの案内をご覧ください。無理に誘ったりはしませんのでご安心ください♪


長くなりましたが今日はそんなところです。
読んでくださりありがとうございます。

ナマステ
EMIRI

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?