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美の感覚について

(2024.6.18メルマガアーカイブ)

言葉って、上がってきた時にキャッチしてあげないと、すぐに空気に混ざるかのように再びは掴めないところに行ってしまいますので、書きたいなと思った時に書ける状況をむりくりでも作れるのなら、記しておくのがいいなと思ってます。


ちょっと日記的に。

3月くらいから忙しくて、ちょっとしたイラストは描いていたんですが、手間のかかる絵はあまり描けていませんでした。その代わりというか、美術館、展覧会、好きな作家の個展などにはわりとフットワークよく、空いた時間に一人でサッと行って楽しんだりしていました。



鑑賞する方でインプットが蓄積されたのか、この数日、時間かかる系の絵画にも着手するようになり、そうそうこの感じだよ!と喜びに打ち震えております。



絵って不思議で、前の晩に描いた絵も翌日起きて見てみると違った印象を持ちます。たぶん自分がリセットされているんでしょうね。描いていた時とは違う目線になっている自分がいます。昨夜格闘していた時には見えなかったものが一晩眠ることでリセットされて、新鮮なまなざしで見ることができ、「あ、なんかいーじゃんこの配色…」とか思えたり。出会い直しですね。




■生存に必須なもの

「美」ってやっぱり素晴らしいのです。誰がなんと言おうと。自然の美しさはいわずもがなですが、人が魂を投入して創作したものから発せられる美は、観る人が時空を超えて「何か」と呼応することを可能にする力があります。



人間というのは、最低限の栄養と衣類と屋根と壁があれば生きていけるようできていないんだと思います。災害時とか緊急事態のもとでは一時的にその必要に迫られることはあっても、心を持つ私たちは自分の知性を新陳代謝させ、美意識に水やりをすることで魂に潤いを保ち、それを核として生きているのではないかと思っています。



東日本大震災のあと、復興支援として福島や岩手の美術館で「伊藤若冲」のコレクションを集めた『若冲が来てくれました』展が開かれた話が、私は好きです。


タイトルがまずいいじゃないですか。「若冲が来てくれました」って、若冲は江戸時代の人だけど、彼の絵が来てくれたことは本人が来てくれたに等しいし、作品を所有しているコレクターがそれらを送り出してくれたことも最高だと思います。被災地の方々、すごく嬉しかったんじゃないかと思います。


物理的な救助と同じくらい、文化的な営みや美意識の回復って大切なものです。





■最後まで閉じないもの

人は、本当につらいことがあると体がうまく動かせなくなったり、味覚が感じられなくなったり、周囲の音への注意力がなくなったりします。一時的に感覚を閉じることで、心に降りかかった苦しみから自分を守る仕組みが人には備わっているようです。


それでも「美」への感覚って特殊だなと思うのは、そんな絶望みたいな心持ちの時でも「美しい」と感じる機能だけはむしろ全開になったりします。


みなさんも覚えがあるのではないでしょうか。例えば何か大きな喪失感を伴うような出来事があった時、深い悲しみに落ち、泣きに泣いて顔を上げた時、ふと道端の草や花が光り輝いている事に気づいたり、いつも見ていたはずの空のその青さに心が制止するような、あの冴え冴えとした感覚。



とりわけこの美への強い感覚というのは、「人との離別」に伴う深い悲しみの時に強く発動するように思えます。自分の体験としても、人の話で聞いたことでも。


悲しみや苦しみによって、日常的な活動のために使っていたいろんな感覚がうまく作動しなくなったとしても、「美」に呼応する感覚だけは、閉じないどころかより一層開くように思えます。


もしかしたらそれって、人類がここまで生き延びてこれた生存戦略のひとつなんじゃないかって思ったりします。大脳を発達させ、思考範囲も拡大すると同時に、同じくらい心理的な苦しみも多種多様に持つことになった人類ですが、それでも生き残れるように、苦しかろうと悲しかろうと、とにかく「美」への感覚だけは閉じず、逆に開くように、進化の過程のどこかで育てた感覚なのかもしれません。


「辛いだろうけど、この感覚を頼りに前に進め」と。

美は魂の命綱なのかもしれません。






■余談的に古代インド人の発想


これを書いていてなんとなく思ったこと。

古代インドの、ブッダと同時代に出現した自由思想家というのがいまして、ブッダの教えとは別のことを言っている存在として「六師外道」と呼ばれた師たちがいるんですが、その中にパクダ・カッチャーヤナという人がいます。


パクダ・カッチャーヤナは、人間を含めた万物は「地・水・火・風・苦・楽・命(魂)」という七つの要素で構成されていると説きます。


当時のインドでは「地・水・火・風」というような四大要素でこの世界を説明しようとするスタイルが、いわば流行っていて、似たような説を唱える他の思想家もいました。



カッチャーヤナの独自の論は、そこに「苦」と「楽」という感覚、そして「命」を加えています。「命」は「気」のようなものを指すのか、生命の生成を司る原理的なものを言っているのかちょっと定かではないんですが、とにかくそうだと説きます。



加えて、7つの要素はそれぞれがお互いに、他の要素に対して何の影響もあたえず、また何の影響も受けないものであり、その点で絶対的で永続的なものであると説きました。



「他に対して何の影響もあたえず」というところは、縁起という影響しあう関係を説く仏教とは違うのがわかります。また、カッチャーヤナの言う7要素は完全独立で不変であり、(こっからがすごいのですが、)仮に人を剣で切っても、ただ剣が七要素の隙間を通り過ぎただけ、殺したことにはならないし悪業にもならない、同じように善行も存在しない、というような、道徳的にはかなりあぶない理論だったため、ブッダの側からするとそうとうヤバイ危険な思想であるとされました。



道徳的な問題はちょっと置いておいたとして、「地・水・火・風」という当時よく言われた四大要素説に加えて、そこに「苦」と「楽」を加えたのはおもしろいなと思います。


「苦」を感じる感覚と「楽」を感じる感覚を、独立した要素として捉えるというのは、心理学的にも物理学的にも研究が進んだ現代の人にはなかなか思いつかないことのように思います。




もし私がこの説を唱えるなら・・・


「地・水・火・風・苦・楽・命」の七要素に、


「美」を追加して八要素としたらどうだろうかと思います。

(インド「8」好きだし。)


もしかしたら「美」を感じることは「楽」に入るのかもしれませんが、カッチャーヤナが主張する「違いに影響し合わない」という主張をあえて真に受けて、「美」が他の要素に侵害されず独立して働き続けることで、この世界や人間の存在が保たれていると考えるのは、悪くないなと思います。



「互いに影響し合わない」とか「絶対的で永続的」という発想は、私自身は持ち合わせておらず、少なからず「あるもの」は別の「あるもの」に影響を及ぼし、及ぼされながら存在しているのが世界、と私は考えるています。


しかし、古代の、ある人(今日はカッチャーヤナ)の目にこの世界はどのように映っていたのかを想像し、自分なりの仮説や提案を挟んでみたりすると、一見、それはないやろ〜!と除外してしまいそうなパクダ・カッチャーヤナの説でも、なんだか別の発光を帯びてくるものです。


以前に描いたパクダ・カッチャーヤナ師を 本日のゲストとして、締めくくりたいと思います。


ナマステ
EMIRI


パクダ・カッチャーヤナ(六師外道)
かなりアブない師を少しでもユーモラスに描きたくて キャプテン翼の表紙を見ながら描いてみました。 また描くことがあれば次世代版カッチャーヤナとして 「美」を入れて描いてみようかと思います。

絵/EMIRI
その辺にあった紙
水彩


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