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意思は光ってる

今週は、漫画家・山田玲司先生の「ディスカバリーレイジチャンネル」のインド哲学講座の収録をしておりました。

写真掲載の許可をいただきましたので玲司先生のご尊顔を♪

IMG-5995のコピー

写真じゃ見にくいと思いますが、私はマトリューシュカを持っていて、玲司先生は、私のLINEスタンプキャラ「しいたけさん」の置物(お友達のMちゃんが粘土で作ってくれた!!)ものを持ってくれています。

マトリューシュカを持っているのは今回のお話のテーマが、しばしば「入れ子人形」にも例えられるインドの身体論「身体五層論(パンチャマヤコーシャ)」だったからです。

緊急事態宣言だった数ヶ月間収録を延期していたので、撮影で会うのは久しぶりでとても盛りあがりました。

山田玲司のディスカバリー・レイジチャンネルにご興味のある方はこちらかへ https://ch.nicovideo.jp/Discoveryreiji


お話した内容、こちらの記事でも内容を少しおすそ分けします。
(収録で話したこととはまた別の角度も入ってますので、ディスカバリーレイジチャンネル会員の方もそうでない方も楽しんでもらえるかなと思います!)


インドの「身体五層論(パンチャマヤコーシャ)」っていうのは、ヴェーダ時代のウパニシャッド聖典の中に出てくる人間の「構造」に関する世界観です。


■身体五層論(パンチャマヤコーシャ)

アートマン(あるいはプルシャ)と呼ばれる人の「真の我」は、次元の異なる五つの層に覆われているのですよ、という考え方で、その層のことをコーシャ(鞘・さや)って表現されています。容れ物って考えて大丈夫でしょう。


食物鞘(しょくもつさや):肉体の層

生気鞘(せいきさや):呼吸や身体の生理現象などを動かす生気の層

意思の層(いしさや):思考活動の層

理知鞘(りちさや):知性や認識活動の層

歓喜鞘(かんきさや):条件を伴わない存在としての喜びの層

その中にアートマン(真我)がおはします、という考え方ですね。


これで何が言いたいかっていうと、一番奥(あるいは外)のアートマン以外は自己じゃない、層(鞘)は本当の自分じゃないぜ、って事です。


層はどんなにリアルでも自分じゃない。でも、肉体や感覚作用(食物鞘)にしても、生理現象(生気鞘)にしても、気持ちや思考(意思鞘)にしても、または信念、認識機能(理知鞘)や、存在性への喜び(歓喜鞘)にしても、どれもリアリティが強いのであたかも「自分」のようである感触が強く、人は「本当の自分ではない物質的な要素を自分だと思ってしまうがために、自己の本来性を見失って無知に落ちてしまうのだ」という、簡単に言うとそういう話です。


身体五層論(パンチャマヤコーシャ)の理論は、ウパニシャッド文献の内容だけ見ますと説明はとてもシンプルで詩的なものです。古い時代のヴェーダにおいての「説明」はたいていそうなんです、なので後の時代の人たちがたくさん研究し、解釈を与えています。


■「意思(マノ)」ってなんじゃ。

五つの鞘のひとつに「意思鞘:マノマヤコーシャ」という層があります。私はこの五層論でいうところの「意思」なるものにいつも興味が惹かれるんです。

通常の会話や文で「意思」という言葉を使うと、その意味としては「何かをしようとする思い」という意味合いで使われるのが一般的かなと思います。辞書上でも「 何かをしようとするときの元となる心持ち」とあります。


でも、「 何かをしようとするときの元となる心持ち(つまりそのように行動しようとする元々の原因的な条件としての思い)」というのは、この身体五層論(パンチャマヤコーシャ)においてはひとつ奥の「理知鞘」に含まれているようで、意思鞘の「意思」ってやつはもっと「物質的なもの」として捉えられています。


それは、「光の粒」みたいに捉えられています。
あるいは、一瞬一瞬ふるまう電気的な信号、みたいに考えてもいいようです。


ここでいう「意思」は「マノマヤコーシャ」という名前の中の「マノ」になるのですが、この「マノ(意思)」というのを物質として捉えているんですね。これは医学的なところで言う「シナプス」で送受信される「情報伝達物質」だろうか。かなり近いように感じます。


ちょっとここで、中外製薬のサイトに「マノ」的な図があったので、一回見てから戻ってきてほしい(笑)。真ん中辺までスクロールで下がっていくと、図の中に「シナプス間隙(かんげき)」に光っている粒が放出される図があります。

これがもしかしたら、古代インド人の言う「マノ」なのかもしれない。個人的にはほぼほぼこれのことだろう、と思ってはいるのですが、古代インド人に確認が取れないので「ほぼ」としておきます。


ほぼ確信している理由のひとつは、瞑想の段階でこの「マノ」らしき光の粒を観察することがあるからです。「思考」が光ってる物質としてヴィジュアル的に観察できることがあるんですね。


身体的なヨーガにおいてはおなじみの「チャクラ」という、エネルギーが集中して車輪のように回っているというものも、「最初からそこにあるもの」というよりも、自分の意思(概念操作)を使って想念を体の部位に大集中させ、そこに「回転エネルギーを発動させる」ことで存在たらしめるのですが、この時もそれは「光っているもの」として形成されます。


パンチャコーシャにおける「マノ(意思)」は、純粋な状態(サットヴァ)である時と、活発に動いてる(ラジャス)時に「光」になります、鈍く動く時や停滞している時は光らない、という理解になります。普段は「心の動き」とか「思考」というのは目に見えないものですが、瞑想中には視覚化されるんですね。そういうのを伝統的に「内観による霊視」って言いますが、霊視とか言っちゃうと怪しい世界の怪しい人だと思われそうですね(笑)。
資本主義の行く末の方が怪しいですよwww


もうひとつの理由としては、何かアイデアを思いついた時に「ひらめく」と言ったりするように、思考というのは「光」という物質なんだろう、と。古来から人は、思考の明瞭な動きが光っている物質であると感覚的に捉えているのだろうと思います。(頭をぶつけて「星が飛ぶ」のも、急な衝撃でマノたちが一瞬方向性を失って、あっここっちに飛び散っているのかもしれないです。)


↓マノを擬人化するとこんな感じかもしれないw!

ぽにょ

(画像提供元 https://www.ghibli.jp/info/013409/)


■日々の思いや行為は、過去の記憶の再生

上の画像の「ポニョたち」が光ってるマノだとすると(笑)、そのマノが「どう振る舞うのか」(=ポニョたちがどう泳ぐか)を決めているのが、心理的にひとつ奥の層である「理知鞘」という知性の身体の中に原因があるよ〜、って話です。


理知鞘にある「ふるまいの原因」っていうのは、過去の「記憶」で、記憶が「〜〜は○○である」というような固定的な想念となって、マノに「この場合こう判断しないさい」とか「この場合こう思いなさい」というような司令になる、という感じ。


つうことは、私たちは過去の記憶に命令されて動かされている、と考えるわけですね。このあたりも、現代の心理学で聞くことができる内容と合致しているように思います。


こういう考え方はその後のインドにおけるいろいろな思想、哲学、宗派に踏襲されます。


原始仏教においてブッダは「心とは単なる情報の集合である」と説きますし、(だから執着して苦しむなと)、

ヨーガスートラでは、呼吸や感覚を制御することでマノ(思考)の振る舞い止めようとするし、

密教ではマノを対象となる仏や曼荼羅や真言に集中させて、その世界(仏)を自分の中にリアルに作ってしまうし、

ハタヨーガではマノの動きを身体上で操作してチャクラとかクンダリニーとかの実際的なエネルギーを発現させちゃうし、


などなど。
通常だったら、理知鞘にある「個人的な記憶」を再生させるだけのマノだったり、司令が多すぎてあっちいったりこっちいったり定まらないマノになったり、または理知鞘が固定観念でいっぱいで特定の動きしかできないマノであったり、と、いろんな「不安定かつ偏った心の癖」となるマノを、意識的な念で操作しようとする技法ができてきます。

自分の中にある過去の情報に執着せず、だからといって新しい刺激に無防備になって乱雑になる思考に苦しまず、それらを制御する、ということがインドの修行論全体に貫かれるテーマになってくるんですね。


■意思鞘と理知鞘

「動き回る」のが商売のマノ。
このマノの動きをゆるやかに、秩序立ったものにできると、思考は静かになっていきます。そうすると、理知鞘という知性の層にある「認識の時の癖」とか「考え方の根本となっている記憶」が見えてきます。どんな思い込みや古い情報があるのかが見えてくるんですね。瞑想のおもしろさや有益さはこういう所にあると思います。なんにせよ、認知すれば対処も考えられるってもので。


五層の鞘は、別の言い方をすると「幻想の自己」と言ってもいいかもしれません。

じゃあ、本当の私って?

それは理知鞘のような「認知している機能」でもなく、純粋な歓喜の心でもなく(ここがインドっぽいね、そうだったらまだ優しいのだけど)、言葉や、感覚で捉えられる領域をも超えた「なにか」なんだ、と。

その何かとの合一を求め、体得してやろうという試みが、インド的な「修行」なんですね〜。


■収録後記
玲司先生と収録後にいろいろおしゃべりしていて、理知鞘の話に。

理知鞘って認識機能なんですが、同時にそれは「比較」「区別」を生む作業であり、もちろんそれがないと普通の生活は送れないのだけど、しかし「認識こそが無知を生む」とも言えるんだよねえ、と。


いろいろなことを学び、知るのはいいこと。
でもその認知は新たな無知を産み続けることも自覚しながら、自分の思考を見張っているべきだね、というお話をしました。


人間の構造っておもしろいですね。
「なんで」こんな風になっているんでしょうねw
「なんで」、おとなしくしていられず、心の機能が動きはじめちゃったんでしょうね。
仕組みや構造は説明しても、「どうして存在することにしたのか」は、神話的あるいは宗教的になってしまうのが古今東西常でありますね。そのあたりはまたお話したいと思います。

宇宙は謎だらけだなあ。


読んでくださってありがとうございます。

Namaste

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