時間になった
紅雀さんは家族で初詣に行き、今年から籤が二百円になっていたことを奥さんに「どない思う」と聞かれた。
「この場合ね、女性はね、男性にどない思う、と聞かんといてほしですわ、だいたい男はなんにも思てません。せやけどどない思う、ゆて聞くもんやから、わたしもね、なんにも思てないなりにね、いやそらお寺さんも紙代や電気代や光熱費がかかってはんねやろ、ゆうたらね鬼みたいな顔してね、あんなもんなんにもかかってへんやないの! とこう言うからね、最近全部物価が上がってるからね、お寺さんもそれに合わせなあかんのとちゃうかと、ゆうてほならまたね、お寺さんやったらそんなん庶民に味方してくれへんとあかんやないの! とこう来てね、ほんで娘までもね、お父さんは全然解ってないー言うてね、わたし悲しーなりましてね、ほでその籤は買うたんかいな、と聞いたんですわ。ほしたらふたり声合わせてね、「買うてないよ!」あちゃくらどんでん返しですわ。買うてへんのかいな。実はわたしね、その初詣のときにね、世界平和ね、これはわたしが思うことなんて小さいことですよ、小さいことですけどこのご時世やしね、そない思たらちょっとは小さいところから、自分の小さい周りからね、変わっていくんちゃうかなー思てね、それでそんなふうにお願い事したんですけどね、早々に諦めましたわ」というような枕だったと思う、それでたくさん笑った。
その日の動楽亭の三席目が紅雀さんで、ここから向こう付けの演目が始まってたいそう面白かった。雀の一文字が入っているので紅雀さんは雀三郎さんの弟子じゃないかと思うけど、表情や声色からもその遺伝子が伝わって来てものすごく好きになった。雀三郎さんの自己紹介は「わたし本業が歌手で、副業が落語家ですねん」と言うヨーデル食べ放題を歌ってる人で、でも落語は飛び上がるくらいにうねりがある。自己紹介も絶対に冗談だと思う。
落語や演歌や相撲は昔はおじいやおばあの楽しみだと思っていて、壁を作るでなく敷居の向こうだと思っていたような節があって、面会室で弁護士に「演歌ラップなんてやってる人いないから、細谷さんやってみたらいいのじゃないですか」と屈託なく言われたことがあってそのときは口の端をつり上げて笑った。同級生のかんちゃんが言っていた「僕らはちょっと落語や演歌や相撲をたしなむのが格好良いと思っているところがあるかも知れないけど、もう自分達の年を考えてみると普通」と言っていて、それは気持ちのそのままを言い表している言葉だと思った。
そういったふたつの出来事を図書館で思い出していると、左手に池田大作『人間世紀の光』と新聞、右手には『女性自身』を開いて読んでいる同年代くらいの女性に挟まれているのに気がついた。よく見ると左手のおばあは巻き寿司を鞄からこっそり取り出して食べながら新聞に赤ペンでチェックを入れてるし、パン!パン!と小さく音がなるのは右手のおばあが気になる見出しを人差し指で叩いているからだとわかった。おばあと並んで三人、大きい窓に向かった長い机に座ってる。巻き寿司を食べ終わって左手のおばあは巻き寿司のくるまっていたビニールを布の鞄にしまい、なにやら小さい声で話しだした、かなりの長い間独り言を言ったあと、「やっぱりあの人もそうなんやわ」と言って立ち上がり、窓の外を注視しだした。右手のおばあはおばあの右隣の青年にのど飴をあげていて、とても満足そうにまたパン!をはじめている。左のおばあは窓の外を注視するのと、独り言にジェスチャーがだんだん付いてき、それから新聞と赤ペンと、その動作はどんどん激しくなってくる。何回目かの左のその立ち上がりのときに、右手のおばあも一緒に立ち上がったのがわかった。右手のおばあを見ると、左手のおばあが見ている方角に何があるのかと探している風で、ふたりの立ち上がりは左手、少し遅れて右手、やっぱりなにかあるのかしらと右手、それとは全く関係のないタイミングで左手、一緒のタイミングでと何回も何回も続いた、ついに右手のおばあがなにかを見つけたように「あ」と言った。左手のおばあは少し大きい声で「時間になった」と言った。そう聞こえただけかも知れないし、でもなにもわからなかった。落語やラップの立ち上がる瞬間に立ち会ったような嬉しい気持ちでその日はたくさんビールを買って帰った。でも買わないとやりきれない気持ちもあった。買わないとやりきれない気持ちは買ってもなくならなかった。