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東京国立博物館「横尾忠則 寒山百得展」

東京国立博物館 表慶館に「横尾忠則 寒山百得展」を観に行った。
現代美術家の展覧会を東京国立博物館で行うという大胆な企画展だ。
クラシカルな建築物の中に、巨大なキャンバスの作品群がシンプルに展示されていたが違和感を感じなかった。


権威主義的なクラシカルな建築物と横尾さんのアートのコラボ


表慶館の中、観覧者も少なくゆっくりと絵画と対話できる

横尾さんの「寒山拾得」をテーマにしたシリーズで、100号サイズの絵が全部で102点。それで題名は「拾得」ではなく、「百得」としているようだ。
「寒山拾得」とは、寒山と拾得という唐の時代の二人の伝説的僧侶のことで、寒山は残飯を食らい、拾得と交わったという、奇行で有名な風狂僧のことだ。
後世の人々は「寒山拾得」のそうした世俗を超えたところに、聖なるものを見出したのだろう。


日本・中国で古来より描かれた「寒山拾得」の絵においては、寒山は巻物を、拾得は箒を手にしている。
私が想像するに、巻物は「仏教の心」を、箒は「穢れをはらう」ことを意味しているように思う。
異様な風体から誤解してしまいそうだが、見た目ではなく本質を見極めよ、
ということだろうか。

同時開催で、本館で寒山拾得の特別展が開かれている

そして横尾さんはこの「巻物」をトイレットペーパーに、箒を掃除機に置き換えてしまう。
さらにトイレットペーパーと共に便器が描かれている。
ある意味ユーモアなのだが、それだけではないような気がする。
トイレやトイレットペーパーは穢れた不浄なものを消し去る装置であり、
掃除機も同様に汚れを排除する道具である。
そうした「汚れ仕事」を通してこそ、悟りの境地へ至るとの考えを発展させたように思える。


シルクハット?芸人のようにおひねりを要求しているのだろうか


やっぱり不気味な笑顔は、従来の寒山拾得と同じ。


もはや抽象画だ


なぜか突然インド風。


横尾さんの寒山拾得の作品には解説の表記は一切ない。
ただ珍しいのは制作された日付が表記されていることだ。
その制作日の日付と共に作品を観ていくと驚くべきことに気づく。
多くはコロナ禍の2022年に描かれているが、このような100号の大作を1点描くのに2日間もかかっていない。中には1日に2点描いている日もある。
とんでもないエネルギーだ。
日付と作品を同時に見ることで、横尾さんのリアルで生々しい
制作風景が目の前に立ち上がってくるようだ。


今回一番気に入った作品はこれ。


バスキアみたいな寒山拾得


よくわかんないけどいい感じ!


これが今回の作品の中で一番オーソドックスな寒山拾得


ミケランジェロみたい

アートを作っているというよりも、横尾さん自身がこの描く行為を通して
ある種の境地に達することを目的にしているかのようだ。
この作品を作るという行為そのものが、結果的にアートになっているように思う。
人物の輪郭も乱れ、荒々しいタッチで描かれた作品は、完成度というものをを最初から目指してはいないかもしれない。
風狂の僧の悟りの境地を描くにはこのタッチほどふさわしいものはないように思えてくる。
この作品群は池大雅や与謝蕪村のような南画を彷彿とさせる。
肩の力の抜け具合がいい感じだ。
テーマと表現が見事にマッチしていると思った。

87歳になっても今だに前例のないことにチャレンジする
横尾さんのような生き方に少しでも近づけるようになりたいものだ。
年齢というものは肉体的なもの、そして社会的なものであって
決して精神的なものではないのだと、横尾さんのパワフルな作品が教えてくれる。


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