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白木蓮の咲く道

あそこを見てごらん、ほら、木蓮が咲いているでしょう。老齢の男性にそう言われて窓の外を覗き込むと、遥か下の道路脇に白いハナミズキが見えた。

先の大雨で大方散ってしまった桜の話をして、桜が散ると寂しくなりますねと私が言ったら、そう教えてくれた。かなり距離があるこの場所からも白い花弁の瑞々しさが窺える。この距離から見れば白木蓮と言われてもわからないかもしれない。けれどいつもその木の近くを通ってくる私はそれがハナミズキであると知っていた。

ほんの数秒。いや、もっと短かったかもしれないけれど、とにかく僅かな時間に私は考え、結局、ほんとうだ、綺麗ですねというようなことを言った。
その人の口から出た木蓮の響きは優しくて、遠い何かを懐かしむような声色だった。この場所から毎日あの花が咲いていくのを見ていたのかと思うと、違うと言えなかった。

これは一週間ほど前の話で、それから時折その時のことを思い倦ねている。
あの時、あれはハナミズキですよと言っていたらどうなっていただろう。
もしかするとハナミズキの方が好きだったかもしれないし、そうでないかもしれない。
桜を惜しむ私を慰めるための言葉で、その人は別段白木蓮が好きではなかったのかもしれない。
考えても何も分からないし、答えはない。
あるのは、桜が散っても他の花が咲いていきますねと言う私に頷いてくれたという事実だけ。

帰り道に近くを通ると、やはり白木蓮ではなかった。この先ハナミズキを見るたびに思い出しそうで、花に悪いことをしたような気がして心の中で謝っておいた。

あの人の春には今も白木蓮が咲いているのだろうことを考えるとどうしようもない気持ちだけがぐるぐると渦巻く。
埒が明かないことばかりがずっと気がかりなままでいる。