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見た夢

ここ五年ほどの間に見た四つの夢のメモを古い携帯から見つけたので記しておきます。夢の脈絡のなさが好きです。安心していられる。


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ふと目を見やると、布団の端に座り込み、こちらをぼうっと、どこか据わったように見る人がいる。
上背はあるが色白く線の細い男には、どうやら色彩というものがまるでないようだった。少し埃っぽい自室にその質の良さそうな黒背広は場違いだったが、この人はずっとここにいるのだったなと思い出すと妙に納得がいった。
顔はぼやけて見えないが、見えないその目が確かに私の方を見ているように思った。
男は静かだった。
そうして、口を開かずにこう言う。
「君はもうわかっているはずだ」
どことなく咎めるような重みがあり、男が言ったのはそれだけだったが、それで十分、何を言わんとしているのかわかった。断頭台に立たされているような、島流しの小舟に乗っているような居心地の悪さに襲われる。
しかしよくよく男の方を見ていると、その静かな目には一滴の悪意もなく、微かな慈悲があるのみだった。
そうだ、そういう人だった。性根のやさしい人だった。この人は私の心を拭わんとしているのか。
あぁそうか、わかっていた。
わかっていたのだな、私は、ずっと前から。
どうしようもなく泣いてしまいたかった。
言葉が喉を通って来ず短く息を吸い込む音しか出せなかったが、そんな私の様子に何かを満足したように、男は無い目で私を見ていた。


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弟の友人に絵のとても上手な子がいた。
うら若き天才画家として有名なその子は、よく描いたものを見せてくれた。私も弟もその絵がとても好きだった。絵を描くために生まれてくる人間もいるのだなと思った。
ある日、泣きそうな顔でその子が私たちを訪ねてきた。聞くと、友であるライオンが拐われてしまったという。村の端にある大きな湖のその向こう側の街にサーカス団が連れて行ったと。
助け出したいと涙目になるのを見て、この子が見せてくれた絵に報いる時が来たのだなと思った。弟には留守を頼み、二人で船に乗って湖を渡った。
その街は、森の入り口にある私たちの家とは大きくかけ離れた賑やかさだった。しばらく走り回っている間に街道に出る。大通りを行くサーカス団が目を引き、大きな車の格子付きの荷台の奥にライオンが鎮座していた。私は物陰からその荷台の下に潜り込み、どうにかしてネジを外して車の下へライオンを逃すことができた。
すぐに警官が追いかけて来たけれど、私たちは上手く散り散りになりながら逃げ、港の近くで合流した。魚屋で拝借して来た鮭をライオンは美味しそうに食べた。ライオンは魚も食べるんだなと考えているうちに、また追手が来て私たちは走り出す。永遠に逃げ続けることはできないとわかっていたが、今は走り続けていたかった。
黄金色のたてがみが白昼の日を浴びて眩しく光り、その横を走っていく少年が楽しそうにしていた。もののあるべき姿を見ているようだった。弟の待つ家に二人と一匹で辿り着いたら彼の描いたライオンの絵が見てみたいと思った。


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古臭い匂いがする。
簡素な部屋の真ん中で一人、正座をしてお茶漬けを食べている。いつものことだ、いつものことのはずだった。違うのは、あなたが死んだということだけ。
死んだというのは、わかるようでわからなかった。
死に顔を見たはずなのに上手く思い出せなかったが、兎にも角にも、私は食事をしなくてはならなかった。通夜と葬式が終わるまで殆ど何も口にしていなかった。プラスチックのれんげを握り直す。お茶漬けは美味しいから好きだ。どんなに食欲がなくてもこれだけは喉を通った。
すっかり重くなった腕をブリキのような動きで口まで運ぶ。やっぱり美味しい。けれど今度は顎が上手く動かない。
無理やり動かして三回ほど噛んだところで、はっとする。唐突に、自分が今この部屋に一人きりで、そうして、そのときようやく、あなたがこの世にいないのだと現実に理解した。
視界が揺れる。手が震える。お茶漬けにぼたぼたと落ちる涙が波紋をつくり、その隙間に血の気の引いた自分がいたような気がする。口の中のお米を噛むのも忘れて、一人暗い部屋の中でうずくまって、唸るように泣いた。温いお椀の感触が妙に生々しく手に残っている。


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花火大会の日、夕暮れの河原にいた。まだ夜は来ていないが、もう花火は終わったのだと誰かが言う。明るい時分に打ち上げてしまったから見えなかったのかと思った。遠くには屋台の灯りが見えていて、皆があちらこちらへと歩いていくうち、私はいつの間にか連れと離れて一人だった。ぼんやりした頭のまま歩いていたら、石造りの階段の下に何やら数人が集まっているのを見た。そこにひょいと顔を出すと、七つになろうかという幼い少年が大人に虐められて泣いていた。大人を追い払い、未だ流れ続けている少年の涙を拭ってみたが、際限なく溢れる。これを止めるのは無理だとわかって、とにかくこの子をここから連れて行かねばならないと、手を引いてみるが石のように動かない。抱えようかと聞いたら、両手を広げてこちらを見上げるので、前から向き合うようにその子を抱え上げ、音の少ない方へ歩き出した。

今は夏らしく、少年はかなり汗をかいていた。私もそれなりに暑さを感じていたが、少年はついさっきまで遊びまわっていたのだろう、短い髪は川に入ったように濡れている。私の首元にしがみついている少年から汗の匂いがして、確かに夏だなと思う。抱えた重みに強烈な既視感と懐かしさを感じつつ、鼻を啜る音が小さくなっていくのを聞いていた。涙で肩が濡れていた。

随分長い間、私は少年を抱えたまま歩いた。何かを話した気もするし話さなかった気もする。歩き出したのは夕方だったが一向に夜は来ないまま、昼と夕を延々と繰り返しながら、日が沈みかけ、また真上まで上り、そうしてまた沈んでいくのを黙って見ていた。
田園を通りすぎるところで、この子の家に向かっているのだったと思い出した。聞かずとも家の場所がわかるので、私はまた黙って歩き続けた。家が近づくにつれ、私は汗で顔が濡れるのを感じていたが、少年の汗はすっと引き、元気を取り戻していくようだった。ずっと少年を抱えて疲れ切っているはずの腕は何故か異様に軽く、少年を落とさないように抱え直す。顔は見えないが、どうやら少年は、怖い思いをしたことをもう忘れているようだった。また日が沈んでいくのを目の端に見て、今まさに抱きかかえているこの小さな子供が、これから越えていく夜のことを考えていた。少年が僅かに身動ぎ、もうすぐ夜が来るのだろうと思った。少年はもう泣き止んでいた。