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「私をくいとめて。」大九明子監督の妄想世界への共感と非共感。

昨晩、兼ねてから楽しみにしていた、のん主演の「私をくいとめて」をみてきた。

元々綿矢りさの原作本を読んでいたので、映画化が決まって、その監督が大九明子で、さらに主演がのんだと知った時は「運命だ!」と思った。私はこの作品に出会う運命だったんだ!と。というわけで、かれこれ半年近く前から心待ちにしていた。

金曜夜の映画館、話の内容的にも私のような寂しいアラサー女性一人客がたくさんいるんだろうな…と思いきや、おじさんの一人客が多いこと多いこと…驚いた。なんでなんでと思ったけど、よく考えてすぐに納得した。ああ、国民の孫・のんの演技をみんな見守りにきたんだ。あまちゃん時代からの彼女の根強い人気を改めて実感した。

とはいえ、結論からいうと多分おじさんたちが面白い!と思えるような映画ではなかったと思う。そしてドンピシャターゲット層であろうはずのアラサーお一人様にもストレートに刺さってくるものではなかった。。ように思う。

全く前情報がない方のために、ここであらすじをご紹介。

おひとりさまライフがすっかり板についた黒田みつ子、31歳。
みつ子がひとりで楽しく生きているのには訳がある。
脳内に相談役「A」がいるのだ。
人間関係や身の振り方に迷ったときはもう一人の自分「A」がいつも正しいアンサーをくれる。
「A」と一緒に平和な日常がずっと続くと思っていた、そんなある日、みつ子は年下の営業マン 多田くんに恋をしてしまう。
きっと多田君と自分は両思いだと信じて、みつ子は「A」と共に一歩前へふみだすことにする。 <公式サイトより>

同じ大九監督作品の「勝手にふるえてろ」は、思春期をこじらせたままの女性が、中学時代の初恋の相手であるイケメン王子様と、自分に思いを寄せてくるいたって普通の同僚男性との間で葛藤する構図で、割と彼女の抱える問題が表面化していて感情移入もしやすかった。今回の作品は、勝手にふるえてろ同様、アラサーのこじらせ女が主役ではあるものの、彼女の抱える問題がかなり内在化していて、感情移入するのが難しかったように思う。

何かしらのトラウマがあり、恋することから逃げているアラサー女性が、孤独や不安から自分を守るために脳内相談役を生み出し、現実から目を背けて一人を謳歌しているフリをしている…。脳内相談役ができるほどまで闇深くはないものの、「アラサーお一人様」という言葉をいいようにとらえて、私は一人を満喫しているんだ!と思い込もうとする姿は他人事ではなく、ここまでは共感できた。ただ、みつ子の「男性から向けられる下心への嫌悪」「女らしくあることへの嫌悪」が、あまりにも強いにも関わらず、その理由が満足に描かれていない…ような気がしてしまい、そこが共感しづらく、感情移入が難しかったように思う。

ただ、「共感しやすい」というところに重きを置くと、この作品の本来の良さに気づけずに終わってしまう。

大九作品の特徴である、「主人公の心の叫びを、本人の妄想上という体で爆発させるところ。」この部分を理解して作品を楽しむべきなのだ。

彼女の作品の中の主人公たちは、感情の赴くままに、泣いたり、笑ったり、歌ったり、叫んだり、情緒不安定極まりない行動をするけれど、それはあくまで主人公の心の叫びであって、主人公たちは実際に人前でそういうことをしているわけではない。

今回の作品、みつ子の闇がそこまで深い理由がいまいち落ちてこないにも関わらず、妄想の世界とはいえ情緒不安定さが尋常ではなかったために、観客は「病みすぎ!」っと、ややドン引いてしまうわけだが。
ただ、いくらその表現が想定より爆発していたとしても、あくまでそれは、みつ子の心の叫びであって、現実ではない。
その叫びを表面化しないようにコントロールできるくらいにはみつ子は正常であり、側から見えればいたって普通のアラサー女性であるのだ。
わたしたちリアルなアラサーお一人様女性たちも、表面化していないだけで、みつ子と同じくらい荒んだ心で、見えないところで泣いたり喚いたり、諦めて笑い出したりしているんじゃなかろうか。実はわたしたちとみつ子の情緒はそんなにかけ離れてないのだ。

大九作品は残酷だなと思う。
わかりやすい共感設定、まるで私たちのような主人公にわかりみが深いセリフを吐かせて、とことん仲間意識を抱かせておいて、突如、非現実・非共感の世界を「妄想」というフィルターをかけて描いてくる。私たちが共感したくないと思うくらいの、ドロドロの感情をストレートにぶつけてくる。

共感と非共感を絶妙なバランスで供給してくるのだ。それこそが大九作品の魅力であり、、怖いところだと感じた。

ただ、正直今回はあまりにも主人公の妄想がイきすぎてしまっていたように思う。。共感部分と非共感部分のギャップが大きすぎた。
勝手にふるえてろの方が、共感と非共感のバランスがよかったのではないか。その点は少し残念だった。もう少し、みつ子のトラウマをわかりやすく描いてくれていたら、共感と非共感の落差が抑えられて、妄想部分も楽しめたように思う。

作品鑑賞をするうえで「共感」は重要なファクターではあるが、それだけが全てではない。だから、共感が難しかったからといって良い作品でなかったとは言い切れないというのは、ここ最近つくづく感じていることである。共感できない部分にこそ作品の魅力があることもある。

そんなことを思ったアラサーお一人様の夜でした。

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