無題のプレゼンテーション

よくないDMにはズルDMとビビりDMがある

ここでいうDMとはSlackのDMのことだ。
SlackのDMの使われ方にはよく悪評が立つ。そして「DMは減らそう」と標語のように言われる。
では悪評が立つ原因の"よくないDM"とはどんなものだろう。

よくないDMは大きく”ズルDM”と”ビビりDM”に二分できると思う。
以下ではそれらの定義と起きる理由、そして対策について考察していく。

ズルDMとは

ズルDMは、本来あることが望ましい”事実確認”・”情報共有”・”関係者全員の合意”をすっ飛ばして何かを決める、正道ではないズルいDMのことだ。
ズルDMは「決定のための必要最低限の同意さえあれば(その他のメンバーの同意はどうでも)いい」という認識から生まれ、その認識の根底には「事実や過程の正誤はどうあれ結果が伴えばいい」というスタンスがある。(自分は事実を正しく捉えられており、意思決定の過程にも間違ったところはない、情報共有も訊かれたら口頭でフォローすれば十分と思い込んでいる場合もある)
好みではないが、「そっちの方が早い」という言い分も分からなくもない。
たしかにスピードを上げて車を運転すれば目的地に早く着けるかもしれない。
ただ事故率も上がるのではないか(私も乗っているんですよ!)、という感じだろうか。

このズルDMは、ズルDM関係者間でのみ同意を取り何かを決定し、そしてその決定がいつ・なぜ・どのように行われたかもズルDM外のメンバーからは見えないため評判が悪くなる。
ズルDM関係者は「意思決定とは関係ないメンバーなのになぜだろう、影響はないはずだが」と思ったりするかもしれない。
ただズルDM外のメンバーからすると、それがモロに自分の業務の内容を左右したり、その業務をなぜ行うのかの理由を把握できなかったりする。
それは納得できるかという心理面だけではなく、業務の要点はどこかわからず適切な進め方自体わからなかくなったりする。
そして除け者にされて大切に扱われていないように感じて傷ついてしまったりもする。

ただこの問題は意思決定者間で起きるため、その外で困っている人がズルDMを失くすためにできることは弊害と改善の余地の啓蒙及び説得、と地道なものになる。

また、ズルDMの問題は本質的には情報共有の不足にあるので、その点では決定事項を記録して共有しないMTGと同じだとも言える。
が、これも同じく外で困っている人は弊害と改善の余地の啓蒙及び説得になりそうだ。
それを効率的に行おうとすると今度は社内政治と見分けがつかなくなっていく、が、その方法については触れない。

ただ、意思決定者が限られていようが情報共有が十分で、不満を溜める人がいないという状態を作り出せるのならばそれで良いかもしれない。

ビビりDMとは

ビビりDMは、オープンチャンネルでのコミュニケーションを怖がった結果送信されるDMだ。
無知だと思われたら恥ずかしい、怒られたらどうしようといった心理から、時に「忙しい人たちに迷惑をかけたら申し訳ないから……」と"善意"ゆえに場を"荒らす"ことにビビってDMをする。
"善意"でグループにメンションしなかったり業務時間外に連絡しなかったりするアレの亜種だ。

これを防ぐには、送信者に安心感を持ってもらうことが必要になってくる。(心理的安全性!)
DMはビビらずにすむ安心できる人だから送っているのだ。

安心感を持ってもらうには、「自分もその場の一員である」と自信を持てるような通過儀礼が効果的なように思う。
すると、「一緒にご飯を食べながら打ち解けるのが一番」みたいな結論になる。
オンラインコミュニケーションを促進するためのオフラインコミュニケーション!
なんだか歪だし、僕も「とりあえず飲み会」みたいな風潮は好きではないけれど、仕組みとしては納得できる。
実際同席して話が盛り上がった相手とは以後やりとりしやすくなるし、人脈やコネなどもこの気安く話せるから、というのが大きいように思う。

もちろん別に大々的な通過儀礼が必須というわけではないので、普通になぜDMだとよろしくないのかという教育やSlack上での優しい言葉遣い、ちょっとした立ち話、困っていそうならヘルプに入る、DMしてきたら警告、などの積み重ねでもビビりDMは減らせるかもしれない。

ただ、そもそも安心できる相手がいないとDMすら送れず、安心感がないとオープンな場でも怖くて発言できないので、なにかよからぬことに気付いても黙って握り潰してしまうことには注意したい。
仮にDMを禁止して課題がオープンに扱われるようになったとしても、課題自体を見つけにくくなって、解かれる課題も小さく少なくなると予想される。
それでは、なんのためにDMを減らしたかったんだっけ、ということになる。

悪いのは誰か?なにか?私たちはなにを達成したいのか?

「怖いのでDMで」と誤った手段をとった人がいたとき、悪いのは怖がって誤った側だろうか、怖がらせて誤らせた側だろうか。
「怖い」を「面倒」と置き換えてもいい。

DMを減らしたいとして、DMはなぜよくないのか。
「DMは減らすべき」という標語は過度に単純化していないか。
前提として共有されている感覚なのか。
その減らし方は適切か。
なぜよくないDMを送るのか、目的だけでなく心理まで把握しているのか。

相手の感情を無視して正しさを武器のように振り回しても、怖がられて距離を置かれたり、身構えて敵対されたりしてしまう。
目的地は同じはずなのに移動手段で仲違いをしてしまうのは悲しいことだ。
飛行機派の人は新幹線派を「わざわざ速度が遅い手段を選ぶのはおかしい」と思っているかもしれないが、
新幹線派の人は「飛行機は空港までの移動やチェックインでかえって時間がかかるので新幹線の方が結果的に早く着く」と思っているかもしれない。
それなら、「なぜそちらは早いのか/遅いのか」という根拠をすり合わせた方がいいだろうし、もしかしたら「1時間くらい違おうがその日中に着ければどっちでもいいよね」となるかもしれない。

持っている情報や考え方、これまでの経験の違いで各々の現在のやり方は違っても、達成したい目的が同じであればすり合わせは可能だと信じたい。
それがDMのようなナイーブなものであっても。

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