8月23日の月曜日、横浜市・市長選挙の翌日にひとりの市民として思うこと

 昨日は大手メディアも注目の横浜市・市長選挙の投・開票日だった。結果は広く報じられている通り、立憲民主党や共産党など主たる「野党」の支持と、菅首相の支持基盤の一人であった「ハマのドン」藤木幸夫氏の支援を受けた山中竹春氏が当選となった。午後8時の開票とほぼ同時に山中氏の「当選確実」が報じられ(ゼロ打ち、とか言うらしいが、なんでもかんでもキャッチ・コピー化して陳腐化させるのはもう止めた方が良いと思う。本文の趣旨とは関係ないけど)、個人的にはそれなりにホッとしたのだが、同時に身が引き締まる感じもした。
 なぜ身が引き締まる感じを?―それは、僕が山中氏に一票を投じたからだ。
 山中氏本人でもない僕が身が引き締まる感じ、一種の緊張感をなぜ感じるに至ったかというと、まず第一に山中氏に一票を投じるという行為が、僕にとって積極的な選択とは到底言えなかったからだ。「候補者唯一のコロナ専門家」というが、データサイエンスの専門家ではあっても感染症対策にまつわる医療行為について専門性を以て語れるわけではないだろう。(山中氏陣営が望んだかどうかは定かではないが、WEB上の記事のコメント欄に「医者だから選んだ」と記している人がいたぐらい、一部ではっきりとした誤解が生じていた。)IR反対・中学校での給食実現などの宣言は良いけれど、その実現に向けてどのような施策を展開していくのかということについて、具体的な発言・立案がほとんど無かった。(その点では田中康夫氏が一番明確だった。彼の発言に対する実現性への信頼度はともかくとして・・・)それでもなお僕が山中氏に一票を投じたのは、何と言っても現今の首長と政権に対して確実なNOを表明するためだった。自分の一票を現状に対して有効なカウンターパンチとして具現化させる、そのために政策云々というよりは主体を得る側に与しておきたい、ただの反対票として埋没することは何としても避けたい。だからいくつかあるカウンターの選択肢の中から「勝つ」ものを選んだ。実際、僕の一票で雌雄が決したわけではないが、こうした考え方で投票すべき人物を決めた人も多かったのではないだろうか。横浜市の有権者数3,103,678、投票率49.05%、山中氏の得票数は506,392。僕が一票を投じた山中竹春氏が当選した。
 自分が一票を投じた人物が当選した、めでたしめでたし・・・とは全く感じていない。山中氏に対する僕のイメージは、あくまでも政治家としてのイメージとしてではあるが、「空っぽ」である。ここから山中氏を「本物の」横浜市市長として立ち上がらせていくことが何としても必要だ。国政政党の政局の具にとどまることなく、また地元の既得権益の守護者になり果ててしまわないように、山中氏を「本物の」横浜市市長として立ち上がらせなければならない。それは山中氏を絶対的な存在=カリスマとして祀り上げようというものでは全く無い。わたしたちそれぞれが発する様々な声に耳を傾け、受け入れるべき声は受け入れながら、私欲・我欲に支配された声に対しては公的なメリットをしっかりと説き、社会が真に必要とする施策を実現する「本物の」市長にしなければならない。そのためにわたしたちは、僕は行動し続ける必要がある。山中氏が打ち出すコメント、指針や施策に耳を澄まし、自分の必要に応じて声を上げ、それに対するリアクションを受けとめなければならない。そう考えたからこそ、昨日、僕は身が引き締まる感じ、一種の緊張感を強く感じたのだ。
 政治とは政治家がやること。僕は、やはりそう考えていたのだろう。でも、毎日の暮らしを守るのは、専業の政治家じゃない。毎日のわたしたちの暮らしを守るのは、わたしたち自身だし、それを守るためには自分なりの「政治」に取り組む必要がある。8月23日の月曜日、横浜市・市長選挙の翌日に、僕はひとりの市民としてこう思う。正直、ちょっとめんどくさいけど。

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