15、その少年の興奮

とある日曜日の朝。
その少年は小学校の体育館の前にいた。

その少年は先週の日曜日にスイミングスクールをサボったことが母にバレた時、(スイミングのサボり方:前回記事の【14,その少年の習いごと】参照)
母から「そんなに嫌ならスイミングを辞めてもいい」と言われていた。
その少年は大激怒する母のこの言葉に大泣きしながら飛びついた。

母は飛びつくその少年を予期していたのかのように、すぐに言葉を続けた。


「そのかわり、他の習いごとを始めること」


その少年はスイミングを辞められるなら、なんの習いごとでもやると言った。
スイミングスクールよりつまらない習いごとなんてこの世にあるはずがないと確信していた。(スイミングのつまらなさ:前回記事の【14,その少年の習いごと】参照)


そして、その少年は体育館に連れて来られていた。

日曜日の学校は、当然いつもの騒がしさはなく静まりかえっていた。
その少年は何故だか悪いことをしている気がした。
学校の大きさと環境音のバランスが合ってなく、不安な気持ちになったからかもしれない。

その少年と母が2人ポツリと体育館の前にいる。
その少年はスイミングを辞められる喜びと、新しい習いごとへの緊張でいつもに増してよく喋った。
「知り合いもいるかな?」「先生怖いかな?」「うまく出来るかな?」


母は最初のうちは答えていたが、あまりにうるさいその少年に、
「見たら分かる」としか答えなくなっていた。

その少年はこれ以上習いごとに関する質問をしすぎると怒られると感じ、
夕飯の質問や学校の話などに切り替えて、自分のテンションを調節した。

そして母がその少年を完全無視し始めた頃、遠くから人が歩いてくるのが見えた。
数人の大人の後ろに、学年がバラバラの男子が10人ほど続いて歩いてくる。

どうやら知り合いはいなさそうだった。
1年生から6年生まで均等にいるのに、その少年の学年の子はいなかった。
しかしその少年は一切気にしなかった。

それはみんなの格好を見て、やりたいと心から思ったからだった。

みんなは丈の長い、遠目から見ると紺色のロングスカートの様なものを履いて、
上半身は戦国時代の武士の様な甲冑を纏い、手には木で出来た刀の様な物を持っていた。


その少年は、学年がバラバラの武士軍団の中の一番背の高い人に、
「おはようございます」と声をかけられた。
今までされた挨拶の中で一番ハッキリと、凛々しくされた挨拶だった。

その力強さに驚き、怯んだその少年は慌てて救いを求めて母を見ると、
母は大人達と頭を下げ合って何やら話をしていた。

その少年は視線を合わせられずボソっと「おはようございます」と返し、一番背の高い人の股間辺りを見た。

そこには「作岡」と書かれていた。
他の武士軍団を見ると、それぞれ違う文字が書かれていた。
「永田」「井上」「合田」「田中」
股間の文字は、どうやらみんなの名前らしかった。
太い筆で書かれた様なデザインで刺繍されたその名前がまた格好よかった。

その少年は自分の名前が、刺繍されるのを想像して更にやりたくなった。

その少年が武士軍団の股間を見てニヤニヤしていると、
母に呼ばれ、大人達に挨拶をしろと言われた。

武士の格好をした大人は3人いた。どうやらこの人達が先生のようだった。
1人はおじぃより年が上でヨボヨボだった。
1人は警察官だと説明された。
1人は「作岡」と名乗った。一番背の高い人と同じ名前だった。

ボソボソと挨拶するその少年に、警察先生が「挨拶は元気よく!」と少し大きな声を出した。
少し強張ったその少年を見て、
おじぃちゃん先生が笑いながら「緊張してるんだよな」と優しく肩に手を置いた。

その少年は警察先生が嫌いになった。
でもまぁおじぃちゃん先生がいるから大丈夫かと、プラスマイナスの帳尻を自分の中で都合よく合わせた。




どうやら今日は見学だけのようだった。
その少年は母が他のママさん達と話をしている横で、木の刀を振るみんなの姿を見ていた。

みんな大きな声を出し、「やー」「めん」「こて」「どう」と刀の振り方に合わせて叫ぶ言葉を変えていた。
その規則性を読み取り、ルールを覚えようと努力した。

その少年の中で、この習いごとをやることはもう決定していた。

しばらくすると、木の刀が竹で出来た刀に変わり、バチバチという音が体育館に響き始めた。
みんな無敵の仮面のようなものを被り、バシバシ、時にパコっと叩き合っている。

その少年には全てが格好良く見えた。
そして、1対1で刀を向け合い戦っているのが楽しそうだった。

ちょっと嫌な先生はいるけれど、それを凌駕する興奮が日曜日の体育館にあることを知った。


その少年は剣道を始めた…。


つづく…。

ここから先は

0字
毎週日曜日に更新いたします。

ひとりの男の子の半生を描いた物語

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?