21、その少年と剣道

その少年は毎週日曜日の朝に剣道に通っていた。

その少年は剣道を習う代わりに、辞めたく辞めたくてしょうがなかったスイミングを辞められたのだった。
(剣道の始まり:過去の記事【15,その少年の興奮】参照)https://note.com/watashiomu/n/na8207a44b981


習い始めた頃の剣道は楽しかった。

木刀や竹刀を振るのは自分が侍になった気持ちで、素振りをしているだけで満足だった。

その少年はひと通り素振りがこなせるようになり、面や銅などの防具を装着して、
実践に近い形で稽古を行うようになっていた。

それがその少年はまた楽しくて仕方なかった。

本当の刀とは違う振り方をするらしかったが、その少年にとっては大きな違いはなく、チャンバラをして遊んでいる感覚だった。

稽古時間は3時間あったが、あっという間に3時間が終わり物足りなさを感じるほどであった。


その少年が剣道を始めたのは春になりかかった頃で、
体育館の空気はヒンヤリと冷たく、少し汗をかいて面を外すと気持ちよかった。

日曜日の朝からほどよい気候の中で運動をして、
とても健康的な生活をしていると小学生のくせにジジィみたいなことを思い、リア充を気取っていた。

しかし、それは夏になるまでのことだった。


夏の剣道はとにかく暑かった。

面は竹刀で叩かれた衝撃だけでなく、たまに吹く風をも塞いだ。

手にはめる小手という防具の中も蒸れに蒸れた。

顔を伝う汗を拭うことは面を被っていては出来ず、
大粒の汗が流れてムズ痒くなった顔を掻くことも不可能だった。

たまらなく痒くなった時は、口を大きく開いたり、目をギュッと閉じたりと顔を変形させ皮膚を動かして耐えた。

地獄だった。


その少年は半年も経たないで剣道を辞めたくなっていた。


しかし辞めることは許されなかった。


中学生になるまで続けるという約束を母としていたのだった。

この約束はどうやっても破れそうになかった。

宿題を毎日必ずすると言っても、どんなお手伝いをすると言っても、お小遣いを減らしていいと言っても、母は剣道を辞めることを許さなかった。

おじぃに助けを求めても、おじぃは剣道をしているその少年が大好きだったようで、話にならなかった。


夏の3時間は長かった。
あっという間に過ぎた春の3時間を思い出し、春と夏は同じ時間軸ではないんだろうなと、気の抜けた面を打ちながら考えていた。


その少年が剣道を辞めたい理由はもうひとつあった。


それは、習い始めた頃に優しかった最年長のおじぃちゃん先生が、
防具をつけ始め、実戦形式になった途端にめちゃくちゃ厳しくなった。


その少年が面を打ち、その振りが甘かったり声が小さかったりすると、
良いのが打てるまで何度も何度も「もう一回っ!」と打たせるのだった。

面で「良し」が出た後は、次に銅、小手と続いていく。
そして最後にまた面に戻る。

もうその少年はヘロヘロで、「良し」と言われた途端に倒れ込むほどであった。

そして倒れると「道場で寝転ぶな!」と怒号が飛んで来るのだった。



母はその少年のズル休みを警戒してか、日曜日の体調チェックは普段よりも厳しく行った。
いつもなら学校を休めるレベルの体調不良でも日曜日の剣道だけは休めなかった。

その少年は心の中で、
「剣道の方が体を使うんだから、基準が逆やろ…」と思っていた。
でも言わなかった。
どうせ休めないのは分かっていた。それに日曜日はなぜか体調がよかった。


そんな地獄の夏を乗り越え、季節は秋になり少し快適な気候になっていった。
その少年は春と夏で培われた体力と、バレないいい塩梅の手の抜き方でなんなく秋を終えようとしていた。


しかし、本当の地獄はこれからだった。


その少年はだんだんと、朝に起きれなくなってきていた。

元々、その少年は早起きは得意な方で家族の中でも一番に起きていた。

しかし秋が終わりを迎え、冬が近づいて来て布団から出るのに時間がかかり始めていた。

その少年は不思議だった。
平日の学校の時は、布団から出にくいがそんなに大したことはなく、ほんの少し踏ん張るだけで出られた布団。

それが日曜日の剣道の朝は出られないのだ。

不思議がるその少年は、ある事に気がついた。

剣道に楽しみがないからだと。

学校には友達に会える楽しみや、体育の授業がある楽しみ、好きな子(吉田さん)に会える楽しみ…など、いろんなワクワクすることがあった。

しかし、剣道場には痒くても顔を掻けなくする面と、ヨボヨボの鬼しかいないのだ。
そこに楽しみはひとつもなかった。

さらに布団から出れない理由があった。


それは、剣道をする服装がとにかく寒いのだ。


それに着替えるのが嫌で嫌でしょうがなかった。


裸足の足の裏から体育館のギンギンに冷え切った床の冷たさを感じ、
ペラペラの薄い道着は隙間から冷気をバンバンに取り入れる。

夏を乗り越えたと余裕をかましていたその少年は、再び地獄に戻った。


いや、夏よりも冬の方が地獄だった。

暑さよりも寒さの方が辛いというのもあったが、冬になってから稽古の開始前にマラソンが行われるようになったのだ。

稽古開始前に体を温めないと怪我をすると、シワシワの鬼が言い出したからであった。


「怪我の前に風邪を引く」


見学している保護者さん達よ、呑気に見てないで言ってくれ、
と思いながらその少年は走っていたが、
子供に剣道を習わせるあの大人達の中に「風邪を引くからマラソンをやめさせて」なんて言う人はいないだろうなとすぐに思い、大人からの異議申し立てを諦めた。



そして、冬も変わらず鬼の稽古は厳しかったのだった。
何度も何度も鬼にかかっていき、「良し」をもらうまで打ち続けた。

最後に「良し」が出て、倒れ込みそうになるのをグッと堪え、
鬼に礼をして、面を外して息をつく。

その時にいつも思うことがあった。


「早く中学生になりたい…」


つづく…。

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