14、その少年の習いごと

その少年は毎週日曜日にスイミングスクール通っていた。

家から自転車で15分ほどの所にあるスイミングスクール。

その日は父に連れられて自転車をタラタラ、だらだらと漕いでいた。
「早く走れ」と父に怒られながら、
怒られそうで怒られないギリギリのスピードを探りながら、
その少年は嫌々スイミングスクールに向かっていた。

その少年はスイミングを辞めたかった。

友達とワイワイ遊んだり、競争をしたりしながら泳ぐのではなく、
ただただ25メートルを往復し続けることに楽しみを見つけることが出来なかった。

コーチと呼ばれるムキムキでブーメランパンツの大人が、
「先週より1秒早くなった!今日でもう1秒縮めよう!」と熱心に指導してくる度に、上手になりすぎてそのパンツを履くレベルまでいきたくないなと思っていた。

その少年は上手になったらブーメランパンツに昇格すると思っていた。
そう思ってしまうほど、コーチはブーメランパンツを誇らしげに履いていた。

残念ながら素質があったのか、その少年の思いとは裏腹にタイムは早くなり、
それによって往復しなければいけない回数が増えるという、上達すればするほど罰が増えていく理不尽なサイクルにはまっていた。

終わると、スタンプカードの様な成績表にコーチがサインをする。
その日のタイムとコーチのサインを貰えば帰って良しとなるのだった。

帰り道は立ちこぎで父を置き去りにするほど早く自転車を漕いで帰った。
そして家に着くと父に、「危ない。もっとゆっくり走れ」と怒られた。


次の日曜日。
前日におじぃの家に泊まっていたその少年は、おじぃに連れられてスイミングに向かっていた。

いつも通りタラタラと、だらだらと自転車を漕いでいた。
おじぃの怒るスピードを探っていた。

おじぃは、いつもよりスピードの遅いその少年に「どうした?」と怒るわけではなく声をかけた。
その少年は怒られなかった事に甘え、「スイミングに行きたくない」と言った。

おじぃは「そうか。わかった」と自転車の向きを変え、スイミングスクールでも家でもない方向へ走り出した。

その少年が「行かなくていいの?」とおじぃを追いかけながら聞くと、
「行きたくないなら行かんでええ」とおじぃは言い、いつもの百貨店にその少年を連れて行った。

その少年が「お母さんに怒られない?」と聞くと、
おじぃはしばらく考えて「…行ったことにしよう」と言った。

おじぃの衝撃的な提案にその少年は一瞬ひるんだ。
あの母を騙すことが出来るのか…。
しかしその不安はすぐに無くなった。

おじぃは公衆電話を見つけると、スイミングスクールに電話をした。
「お世話になってます。今日のレッスンなんですが…」

その姿を見て、その少年はイケると確信した。
こっちには大人がいるのだ。怖いものはない。

その少年は水着の入ったビニールのカバンから、成績表を取り出しおじぃが電話を切るのを待った。

「今日は体調が悪いので休ませます」そう言い電話を切ったおじぃは振り返り、
その少年を見て大きく頷いた。
それは、大丈夫だ、の合図だった。

その少年は成績表をおじぃに渡し、コーチのサインと泳いだタイムが必要だと説明した。

おじぃは先週のコーチの名前を真似てサインをした。
大人の字だ。イケる。

おじぃは泳いだタイムも先週と同じタイムを書こうとした。
その少年はその手を止め、「先週より2秒遅くして」と頼んだ。
おじぃは不思議な顔をして2秒遅くタイムを書いた。
よし、ブーメランが遠ざかった。

そして2人はスイミングが終わる時間まで百貨店デートを楽しんだ。

いつも長く感じる日曜日のお昼が、一瞬で終わった。


おじぃと家に帰ると、母が洗濯をしようとしているところだった。

母の顔は見えなかったが「おかえり」の声を聞き一瞬ドキッとした。
その少年を感じてか、
おじぃは母と「連れて行ってくれてありがとう」「おう」の会話をしながら、
その少年を見て大きく頷き、再び、大丈夫だ、の合図を送った。

その少年はその合図を信じて、いつも通りを心がけた。

その時、母から「水着も一緒に洗うから出して」と洗濯機のある所から声が飛んできた。
その少年はカバンごと母に渡した。
そこには成績表も入っている。それもついでに母が見れば行った感がさらに増すという計算だった。

カバンを渡し、その少年は足早にリビングに戻った。
あまりその場にいすぎても怪しまれると考えた。

リビングに戻っておじぃと何てことのない、適当な会話をしてソワソワする気持ちをいつも通りの自分の状態へとなじませた。

しばらくすると、母がリビングにきた。


そして、母が言った。


「あんた、スイミング行った?」


その少年は一瞬、無になった。
慌てるとか、しどろもどろになるとかではない。
無だった。

そして次に頭の中に浮かんだのは、
百貨店のゲームコーナーで遊んでいる自分の姿だった。
車のレースゲームをしている自分を思いながら「え、何で?行ったよ」と答えた。


すると母は「あんた、髪の毛濡れてないね」と言った。

ん、と思いながらその少年は自分の頭に手を当てて確認した。


サラサラだった。


あ。


と思った。そして終わったと思った。
意外と冷静に終わったことを受け入れられた。

しかしおじぃから「今日はドライヤーで乾かしたからな」と起死回生の言葉が出た。

確かにスイミングスクールの更衣室にはドライヤーがある。
女の子やコーチ達が使っていて、早く帰りたいその少年はいつもはそんなものは使わないが、使ってもそこまでおかしな事ではない。さすが大人。


これでいけたかと思ったが、母にはまだ余裕が感じられた。


「へー。じゃぁ水着が濡れてないのは何で?」


母の手には、綺麗に畳まれたままの乾いた水着があった。


その少年はこれはヤバイと思ったが、こちらには大人がいると慌てそうになるのを堪えて、おじぃの返す言葉に期待した。

おじぃは腕を組みしばらく黙ったあと、その少年を見て、


ゆっくり首を振った。


ダメだ、の合図だった。


その少年は「え!」と思わず声が出た。


そのあとはもう…どう表現すれば適切か分からないほど、怒られた。

表現不明のボリュームで文字数限界の言葉が、ひとしきりおさまって気がつくと、

おじぃはいなかった…。


そこからしばらくの間、おじぃに会うのが禁止になった…。


つづく…。

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