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【楽気7月企画①】《願い》についての捉え方と願いを《叶える》ための心持ち

筆者: 私/marina https://instagram.com/0m2m.n
楽気 https://luck-key.jimdosite.com

 こんにちは、公式サイト https://luck-key.jimdosite.com にも書いた通り、今月は月曜日・土曜日のどちらか(または両方)にnoteを更新していくことになりました。いろんなSNSやツールを使っていると使用頻度が偏ってしまいがちになるので、それぞれの良い部分を勉強しつつ情報を発信していきたいと思います。

 noteでは毎回テーマを設けて、私個人の視点から思考や意識、心理、哲学、肉体、スピリチュアルに至るまで様々なコラムを書いていくことにしました。テーマが決まれば書き出しは早いのですが、今これを書いている時点ではまだテーマ決めが終わっていないので最後にどう着地するのか楽しみですね笑



 昨日は七夕、日本ではお願いごとを書いた短冊や飾りを笹に括って「願いごとが叶いますように〜!」と天の川に祈るイベントです。軽く調べてみたところ起源には複数の説があり、今を生きている私たちにはどれが真実なのか精査する術もありませんが、織姫と彦星の話を知っている方は多いと思います。年に一度しか会えない二人のお話です。
 個人的には小学生の頃に給食で出ていた“七夕ゼリー“が可愛くて、ちょっと凍っている状態で出てくるのでシャーベットっぽくて美味しかったなぁ〜という思い出があります。学校や街のイベントとして短冊に願いごとを書くことはあっても、「絶対に叶えて!」とは思っていなかった気がしますね。

 私のInstagram https://instagram.com/0m2m.n に写真を載せたのですが、昨日は久々に鳥取市内にある倉田八幡宮という“いつもの“神社に遊びに(私個人の考えですが土地に根付く神社は、その土地に住む人たちにとって気軽な場所であるべきだと思っているので、あえて“遊びに“と書きます。忘れられることが一番悲しいので。)行きました。七夕を狙ってというわけではなく、本当に偶々行きたくなったので仕事の前に立ち寄ったのですが、七夕と神社って《願い》という側面で少し似ているなと帰宅した後に思ったのです。

 皆さんは神社に行った時にお願いごとをしますか?
 私は“しません“。地元の行き慣れている場所なら「また来たよ〜いつも見守ってくれてありがとう、これからもよろしくね。」くらいの軽い挨拶で済ませますし、普段行かない場所や初めて行く場所の時は、簡単な住所と名前を名乗って「本日はお招きいただきありがとうございます。」で終わりです。たまに地元の神社で「〇〇を始めたから、楽しく続けていけるようにがんばるよ〜見守っててね。」と宣言することがあるくらいかもしれません。
 それは私にとっての神社が“誓う場所“だからです。例えば、世界平和を祈った時、私は私にとっての世界平和について日々行動で示さなくてはなりません。資格習得を願えば、私は私の誓いを反さぬように資格習得に向けて毎日努力を自分自身に見せつけなければならないのです。神社とはそういう場所です。少なくとも私にとって。

 辞書で《願い》という言葉を引くと、「こうなってほしい」という具体的な思いを自分以外の誰かに頼むこと、とあります。逆に誰かに頼らないことを《望み》と言ったりします。
 これを聞くと私の祈りは誰かに頼らず自分で努力することなので《望み》なのではと思ったりもするのですが、誓いを自分以外の誰かに“聞いてもらう(聞き入れてもらう)“という《願い》にこそ意味があるとも思うのです。

 私はエネルギー的な側面から世界を見るのが好きなので、私だけの誓いや努力が、私以外の誰かに共有された時に起こる大きなエネルギーの変動を知っています。その分、ちょっとだけプレッシャーになることもあるけれど、私の“誓い“のエネルギーを誰かのエネルギーが補助してくれること(「この人は〇〇のために勉強しているんだな」と心の片隅でほんの少しだけでも覚えていてくれること。)はとてもありがたいことです。
 だからこそ私たちはいつも“声に出して周りに伝わるように“自分の努力を誓うべきだし、誓いを“共有する・共有される“ことには思ったよりも深い意味があることを知っていてほしいのです。そして、私たちにはいつだって誓いの共有者がいます。それがハイヤーセルフ、高次の自分、聞き馴染みのある言葉でいうと守護霊なのです。

 ここまで書いてあれなのですが、“「こうなってほしい」という具体的な思いを自分以外の誰かに頼むこと“を《願い》とあなたが捉えている場合、その《願い》を叶えることは難しいかもしれません。
 それはその《願い》があなたの願いではなく、誰かの願いになってしまっているからです。逆を言えば、あなたが“誰かに頼むこと“に対してしっかりと向き合うことができれば、その願いは誰かに任せることを選択したあなたの《願い》になります。叶っても叶わなくてもあなたが責任を負う、あなたのためのエネルギーの動きです。
 ちょっと話が難しくなってきましたが、つまり《願い》を《叶える》ためには、前提として私が私の意思で選択し、行動する覚悟がある《願い》でなければならないということです。

 “行動する“と書いたので、今度は「そうなってくると目標では?」という疑問が浮かぶと思うのですが、エネルギーを扱うってそういうことなんですよね。
 行動の指針やエネルギーの方向を定める“私“がいるからこそ、矢印に則ってエネルギーが真っ直ぐに進み、この世界の誰にも否定されることなく私の誓いを“共有“してくれたり、《叶える》ための最短距離を導き出すことができるのです。何もせずに《願い》が叶うと思ったら大間違いという話ですね。この辺は物質的な世界よりもシビアかもしれません。

 もし、これを読んで「えっ、七夕で盛大な願いごと書いちゃった!」とか「いつも神社でお願いごとしてる!」と思ったあなた、別に焦らなくても大丈夫です。今から“私のため“の《願い》にする方法はいくらでもあります。
 結局、目に見えない世界はそれぞれの“意識“の中の話ですから、いくらだって変更が利きますし、あなたの世界はいくらでも変わる余地があるのです。エネルギーってスライムや粘土みたいに形が変わって、自由で柔らかな触り心地だから信用できるなって私は思ってます笑
 まずは自分の《願い》が本当に自分のための《願い》なのか考えてみましょう。文字通り、“誰かに頼らなければならない“《願い》なら、全てを相手に委ねる覚悟を決めてください。それが無理だと思うなら、元々その願いがあなたのものではないか、自分で行動すべき願いということになります。
 あなたの精神も、肉体も、エネルギーも、《願い》だって全てあなたのものです。あなたのための《願い》をあなたのエネルギーで《叶えて》いきましょう。

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