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悲しみの避け方?

悲しくて苦しくて堪らなくて一人っきりで嗚咽するほど号泣したことって何回あるだろうか。

私は覚えている限り3回だけである。まあ幼少期と泥酔期を合わせれば軽く100回くらいは超えそうだが今日は一旦ノーカンにして欲しい。もちろん、嗚咽を伴う悲し泣き以外は除外した回数だ。

その3回っていうのも結構辛いやつで、6歳から15年間一緒だった愛犬がお星様になった時と、部活の人間関係でしんどくて2日間不登校になった時と、付き合ってた恋人がまたまたお星様になった時である。ここはロマンチックに彦星になったとでも言っておこうか。(話くそ重いけど大丈夫そ^_^?)

この3回はそれぞれ数日間ずつ号泣していた記憶がある。学校も部活もバイトも友達との予定も全部ブッチして布団に入って涙が止まるまでただただ泣いていた。まあハイキュー観たり鬼滅観たりはしてたけど。あとwii。


でも最近ふと思ったことがある。私は22年間の人生で嗚咽するほど号泣するような悲しみが3回しかなかったのかと。そうであるならば私はすんばらしく幸せな人だろう。22年間365日8,030日(閏年は無視)の内、たった3回しか大きな悲しみに見舞われていないのだから。


でも私はこのすんばらしく幸せな人ではなかったようだ。


はにゃ?はにゃにゃ??いや今3回しか無かったっつったじゃん、だからすんばらしく幸せな人だって自分で言ってたじゃん。(ほんまそれな^_^?)

でもちゃんと22年間を振り返ると3回しか嗚咽号泣が無かったのは事実だが、3回しか大きな悲しみに見舞われていないという記憶はどうやら私の記憶違いみたいなのだ。

思い返せば、幼少期に可愛がってもらった祖母が亡くなってしまった時も、父に何故かボロクソ言われた時も、父と兄が大喧嘩したとき時も、母の病気を知った時も、大切な人が死にたいと言った時も、それこそ大失恋した時も、そういえば私はとてつもなく悲しかったのだ。堪らなく悲しかったのにしくしくと30分も泣けば次の日には「バスチー食べたい」だの「新大久保行きたい」だの言えていた。


何故あんなにも悲しかったのに嗚咽号泣が発動されなかったのか、私には1つ思い当たる節がある。それはいつからか"悲しみに向き合うのを辞めたから"である。










えなんかかっこよくね?wwww




そうゆう話ではない。^_^

悲しみというのは突然やって来て、その突然の到来以来、人はその出来事に想いを巡らせ苦しみや後悔、やるせなさや喪失感に心を奪われる。こうゆう複雑な負の感情が1つの「悲しみ」という範疇にカテゴライズされて、ああ、私は今とてつもなく悲しい悲しいと私たちは涙を溢すのではないだろうか。

私もある年齢まではこの「悲しみ」にとことん心を奪われて、「あの時もっとこうしていれば」とか「もう辛くてやっていけない」とかこの世の終わりかのようにボロボロボロボロボロネーゼのように泣いていた。

だけど愛犬が亡くなった後くらいだろうか、この「悲しみ」にとことん向き合い身体共に擦り減らす行為は、私の人生において何の意味もないということに気づいたのである。愛犬が亡くなったとしても、自分の居場所に苦しんでもう生きていきたくないと思ったとしても、例え大好きで堪らなかった恋人がこの世から消えてしまったとしても、それでも自分は生き続けているし何年もすればそれはただの過去になって年を経るごとにいくらか色褪せる。きっと数年後には新しい犬と暮らしているし、新しい恋をしている。そうと分かっているのにこの世の終わりかのように号泣するのは何とも馬鹿馬鹿しい行為だと、悟ってしまったのだ。(悟りすぎである)


それからというもの、「悲しみ」がやって来たとしても私はそれについて考えるのを極力避けるようになった。その瞬間はひどくショックな出来事だとしても、数年後には過去になることを身をもって知っているからだ。

ただこの見て見ぬふり戦法には大きな欠点がある。「ふと思い出してしまった時」に涙が止まらないのである。普段自分から友人にその悲しい出来事について話すことはないし、考えそうになったとしても首を横に振り続けている。それでも何か関連することがあった時、感動的な絶景を目にした時、亡き人と誰かが重なって見えた時、そんなふとした瞬間に涙がポロポロと頰を流れて「ああ、初めてこの悲しみと向き合ったなあ」と思い知る。


こんな欠点はあるのだけれど、「悲しみ」に真正面から向き合い、数日間身体共に擦り減らす行為よりずっと楽な生き方だと思っている。ふとした瞬間さえやって来なければ、気づいた時には「悲しみ」が色褪せてただの過去になっているのだ。


ただそれと同時に、「悲しみ」に正々堂々と対峙するある意味精力的な生き方に憧れを持つこともある。なんてドラマチックで純粋無垢な生き方なのだろうと。ただ「悲しみ」を避けて生きてきた私には、"一時的な出来事にそんなに何日間も身体を駆使して悲しむ必要はあるのか"と、そんな風に映るのである。冷血でせこい生き方をしているのは私の方なのに、どこか自分の方が生き方を知っているような顔をしてしまう。そんな人として「悲しい」という「悲しみ」の避け方は、この生き方をしていては見つからないだろう。


#人生観 #死生観 #悲しみとの向き合い方 #あち子のつぶやき #オチがなかったので無理矢理作ったらキザになってしまった #途中のボロネーゼはみんな笑ったでしょ ^_^