見出し画像

人間不信と人間信者 どっちが幸せか

人狼ゲームというゲームをやったことはあるだろうか。修学旅行の寝る前とか、移動中のバスの中とか皆んなでわいわい盛り上がったあのゲームだ。

私はあのゲームがとてつもなく弱い。生き残れないどころか人狼になった時なんてすぐにバレて1回目の投票で負けるほどだ。村人とか騎士になってもすぐに殺されて話せなくなるからなんとも退屈なゲームである。

 

何故これほどまでに弱いのか、敗因は自分でも分かっている。嘘が下手だの、顔に出るだの色々あるが、一番は私が"人を信じすぎ女"だからである。

占い師と言われれば占い師だと思うし、狂信者だと言われれば狂信者に見える。村人がさすがにいすぎたらその時は疑うが(さすがにね)。「この人嘘ついてるのかな」「こう言ってるけど本当は、、」そんな人狼ガチ勢みたいなことが上手く考えられない。(単細胞かな?)


これって日常生活でも同じだな、と思うのだ(日常でも単細胞)。「誰にも言わないから」と言われれば、この人は誰にも言わないのかぁ安心だなと思う。「親友すぎて何でも話せる」と言われれば、自分はその人の全てを知っているように感じる。「予定あって行けない」と言われれば、素直に残念だったなと思う。

こんな具合に私は人を疑うことを知らない。だから『◯◯ちゃんから聞いたよ』とか『知ってる?◯◯って最近こうらしい』とか『その日◯◯さん暇って言ってなかったっけ?』とか、あとから事実を知った時にこの上なく傷ついてしまう。いつもこう。

そんで傷ついた暁には、私はその相手が全く信じられなくなる。どれだけ仲が良かったとしても一回そうゆうことがあっただけで根本的に信用がなくなってしまう。今までしていた恋バナも家族の悩みもお酒の失敗談も、全部全部話さなくなる。というか話したくなくなる。「信用していたから話したのに」「わたしばっかり全部話して馬鹿みたいだな」そんな風に思って心を開かなくなってしまう。(鬼だるピュア女である^_^)


もちろんその人に対して怒りとか憎しみとかそうゆう感情はこれっぽっちも生まれない。なんならそれまで通り遊びに出かけるし、飲みに行こうと言われたら楽しみに会いに行く。そんで今までどおりの友達をして「今日もやっぱ楽しかったわ\(^^)/」とか言われる。


こんなことが今までの人生何回も、特に大学生になってから本当に何回もあったから「人は言わないと言っても言うぞ みつを」「親友でも隠すことありけり」「遠回しの断り方ありけり」なんてことは痛いほど分かっている。


それでもやっぱり“この子なら言わないでいてくれるんじゃないか”とどこかに期待を持って秘密話をしたり、“この人のことは沢山知っている、信頼し合っている”とその友情の固さに自信を抱いたり、“本当に予定があったんだな”と腑に落ちたい自分がいる。後で傷つくと、勝手に裏切られた感覚になるとアホくらい分かっているのに。


でもこれって別に悪いことではないよな、と思っている。人を疑って何も出来ないより、人を疑って人を傷つけてしまうより、人を信じて自分が傷ついた方がよっぽどマシである。傷つくと言ってもかすり傷程度だし(かっこよい)。人として馬鹿なのかもしれないが、ある意味私の中のイノセントでピュアな純粋無垢な部分だと思っている(私の中の愛すべきベイビー部分ってこと)。


まあこの"人信じすぎ女"が将来詐欺に合わないかどうかが一番心配なのである。「親が病気でお金がない」だの「会社が潰れてガスが止まりそう」だの、そうゆうことは絶対私に言わないで欲しい。でもこんな言葉が詐欺かもしれないと思う時点で、やはり私の中にも最低限度の人間不信の部分はあるようだ。

 

#いやおま詐欺絶対引っかかるやろ ^_^ #人信じすぎ馬鹿女だと思ってたけど開き直って人信じすぎいい奴と思うようにしてる #ポジティブしか勝たん #チャラい奴が意外と口固かったりするんよな #人生観 #信じるということ #あち子のつぶやき #大学生のつぶやき