生きている

続けなくてもいいのかもしれない。今日で21日連続、文章を書いている。文章を書くことは生きることと同義だと思っている。生きているから文章を書いているのであって、文章を書いているから生きている。そのどちらか一方ができなくなったら、私は死んでいることになる。

何もせずに生きることができるのと同じで、何もしなくても文章は書ける。人に誇れるような経験がなくても、平々凡々な人生を生きていても、死にたいと思っていても、ベッドの上から動けなくても、トイレにこもっていても、いつだってなんでも書ける。

「何も書くことがない」。そう言われれば、「じゃあ、『何も書くことない』について書いてみれば?」と返すだろう。人は何も書くことがないなんてことはない。頭の中で何かしら思っているだろう。それとも、頭の中は空っぽで常に無心の状態で生きているのだろうか。それはそれである意味すごい。人はとっ散らかった頭の中、混沌とした世の中を生きていて、それらに負けない自分だけの無の境地があるのなら、私も体験してみたい。

常に何かを考えている。今日はこれからどうしようか、今日の予定はイヤな予定ばかりだ、お夕飯は何にしようか、あの人が嫌いだ、海外で悲惨な事件があった、道に寝ているホームレスは寒くないのだろうか、私はこれからどう生きればいいのだろうか、私の将来は、私たちの未来は、日本の行く末は……。考えることは多くある。自分が考えてもどうしようもないことばかりかもしれない。それでも考えることをやめられない。人間とはこういうものなのだろうか。

毎日穏やかな心で、その日の食事の献立だけを考えていたい。イヤな気持ちや不安な気持ち、何かに襲われそうな気持ちになることなく、平穏な心で毎日を過ごしたい。そんな生活ができたらどんなにしあわせだろうか。きっと、つまらない毎日だけれど、本当にそんな毎日を過ごしたいとは心からは思わないけれど、でもかすかな羨望だけは心に抱いていていいだろう。

今日もまた私は、これからの天気のことを考え、これからどうするか考え、お金の心配をして、イヤな人の顔を思い浮かべ、イヤな気持ちになり、でももうどうしようもならないな、と結論づけ、考えることをやめて、眠りにつくだろう。どうしようもない毎日を私たちは生きている。今日も明日もこれからも生きていく。肉体が死ぬまで、あるいは書くことをやめる時まで生きている。私たちはまだ生きている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?