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梶原景時の変_02 千葉純胤の時空移動

梶原景時に対する弾劾状を前に大江広元は頭を抱えていた。この弾劾状は主だった御家人を含む六十六名もの連判状でもあった。

大江広元としては梶原景時の処罰に繋がる弾劾状を源頼家に渡すのはなんとか避けて穏便に収めたいと考えていた。しかし執拗に和田義盛より弾劾状を頼家に渡してほしいと迫られては無下には出来ず、遂に大江広元は頼家に弾劾状を渡した。

頼家は梶原景時を呼び出して弾劾状に対して申し開きはないかと伺うも、梶原景時はなんの弁解もせず翌日には一族を引き連れ相模へと出立した。

甲斐国、某日。武田信光と板垣頼重が武田家の館奥でひそやかに話を交わしていた。板垣頼重の父は武田信光の兄である板垣兼信である。板垣兼信はひと昔前に頼朝による甲斐源氏大粛清の折に隠岐へ配流とされた。子息の板垣頼重は難を逃れ今は武田信光の腹心として傍にいる。

「信光様。有義様の件でお伝えしたことがあります」

有義とは信光の弟で逸見家へ養子となった逸見有義の事である。

「どうも有義様は梶原景時となにやら連絡を取り合っているとのこと。かような密書が漏れてまいりました」

板垣頼重は武田信光に梶原景時から逸見有義宛への文を渡した。武田信光が一読するとそこには梶原決起の折には逸見有義が将軍となって京より鎌倉へ進軍する旨が書かれていた。

武田信光は少し黙祷しつつ、板垣頼重へ耳打ちをした。

正治2年(1200年)一月、梶原景時は一族を率いて上洛すべく相模より京へと出立した。しかし途中の駿河にて某一団の襲撃に合い一族共々討ち死にとなる。

梶原景時、享年五十九歳だった。

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