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巴里へのお別れ
記憶が有する曲か。そのリミックスか。どちらでも構わない。
核爆弾のクレーターの横のような無慈悲で空虚な闇に踊り疲れたのか、それとも彼女の軟く甘い皮膚と接触し続けている事への倦怠感のせいなのかは分からないが、宙空を舞う埃の如し心拍の鼓動の再現の振動の、ただただたる永遠とその反復の中に、既にミュージックは存在しなかった。
喧騒を離れ、少しでも静かなところに。
そう、本能が欲したのか、彼女の目も、その薄い完熟した桃色の唇もそう言っている。
僕たちは無言でダンスホールを離れ、人が疎らなバーカウンターへ向かう。
ヴィクトリア朝の回転椅子を模したそれに腰掛けると、バーテンダーというよりは、如何にも不良上がりの就職といった趣の、獰猛な肩をした武骨な印象の男が一人待っていた。男はこちらを客とも思っていないらしく、ぞんざいに注文を尋ねてきた。
バドワイザーを。
じゃあ、私はジントニック。
奢るよ。僕はそう言ったが、彼女は頑として自ら払うことを譲らなかった。
その横顔は、電飾を反射した硝子の陶器のようでありながらも、インフレした何処かの国の崩壊間近な紙幣にも思えた。
うるさいわ、ここ。
彼女は言った。
確かに人気のディスクジョッキーの流すミュージックは、僕たちには煩すぎた。ミュージックは反復する。誰かがそれを作曲し、アレンジされ、エフェクトがかけられ、創作の螺旋を描いて、こうして耳腔へと入り込む。しかしその高揚感は一部の現実から乖離した人々にとってのヘイヴンなのだろう。それら全てが丁度コピーされたパルプ小説の愛憎に似ている。
ふと思えば、煩すぎるくらいが丁度良かったのかもしれない。
僕はバドワイザーの若草色のボトルを口につけた。
まさか電話が来るとは思わなかったな。
どうして? 友人、しかも直近の元カレにお別れの挨拶をするのは当然でしょ?
まぁ……で、どんな場所なんだ? パリって。
少し大声でまるでどうでもいい質問を切り出し、彼女との再会をこんな大音量でミュージックの掛かる場所に選んでしまった事をつくづく後悔した。それは、それは血潮が喚くような。
あれ、世界旅行記みたいなNHKで見るやつ。
そうじゃなくてさ。
彼女が巴里に行く理由はとうに知っているので質問の意図はない。ただ、この数ヶ月前まではベッドで肌を重ねていた関係のいやらしさを紛らわすための嘘を重ねるだけだ。それは彼女も同じだ。僕たち二人は最早、そのポーカーみたいな駆け引きでしか会話できないのだ。
凱旋門、シャンゼリゼ通り、紙袋から飛び出したフランスパン、みたいな。
だからそういうんじゃなくて、こう、ガイドブックに載ってない世界だよ。
都市よ、大きな都市。トーキョーと変わらない、ただの街よ。単に日本人が勝手なヨーロッパのイメージをつくっているだけで、何も変わらない気がするけど。
そこで漸く彼女はジントニックを口にした。それに合わせて、僕も皮肉を口にした。
じゃあ、人々の精神の衰退した形も?
そう、フランス人だけ特別じゃない、皆、世界は精神が乏しい世界を生きているかもね。
昔からの僕の気取った会話に呆れ返りもせずに、まるで素面で付き合ってくれるのは彼女くらいなものだ。
僕たちも所謂心ってやつが貧困しているのかな。
さあ、私はパリに行くくらいのヴァイタリティはあるけど……あなたは?
どうかな、ここに来るまでにふと思ったけど、人の肌が触れ合うほど満員電車なのに、隣の人が何味のアイスクリームが好きかも知らないよね。それに知らなくてもいいよね?
隣の人が甘党かどうかも?
そりゃ、ほんとにどうでもいいな。
僕は自虐的に笑いながら、煙草に火を付けた。
サンキュー、思い出した。そういえば私、しばらく抹茶味が食べられそうにないから、空港でアイス食べるよ。
でもこんな会話って馬鹿ね、と彼女は続けたそうなのが自虐的な笑みから伺えた。
で、何時だっけ、月曜日のフライト。
三時半、成田発、シャルル・ド・ゴール着。
僕は紫煙を吐き、昔と変わらず彼女はそれを嫌そうにした。
一つだけお願いがあるんだ。
何、下品なやつはやめてね。
ジャン・ポール・サルトルのファンなんだ。
名前なら知ってる。
ノーベル賞を断った哲学者だよ。
どうして断ったの?
公の賞は受けないんだってさ。
貰っておけばいいのに。それで?
サルトルの暮石の写真が欲しいんだ。
暮石の写真なんて、それより私の気に入った裏路地を送るわ、好きでしょ? そういうの。
それもいい、でも墓石は僕にとっては君がパリで新天地を迎えるのと同じくらい大切なんだ。
私の新生活と墓石を同列視しないでよ。
そう言いながらも彼女はこのゲームを楽しんでいるようだ。
偉大な哲学者であるサルトルほどの人がどんな墓で眠っているのか気になるんだ。これは僕にとっても君にとっても死活問題だろ。
どういう意味?
彼女はもう真意が分かっていながら、わざと尋ねているようだった。その証拠に出会った頃は目立たなかった瞳の横の小さな小皺が泳いだ。
ねぇ、死んだ後、自分がどんな所で安らぐのか気にはならない?
どうかな、死んだらねぇ、今はフランスにお線香があるかないか、そのくらいかな。
だからさ、サンプルだよ。モデルハウスと同じ。ほら、このご時世、墓石もコマーシャルの時代だよ。だから君にこのカメラを持ってきた、餞別。
僕が机の上に鞄から出した大昔の四角い箱のようなロールキャメラは、なんともメカニカルで、アナロジーで、武骨で、時たま魅せる彼女の精神の強度に似ていた。
まだ捨ててなかったの? これ。
捨てるかよ、このブラウベル・マキナ67は蛇腹キャメラなのに未だに愛好者がいるんだ。ニッコール・レンズのせいかな。まさに名品だよ。
マキナ……ギリシャ語で機械だっけ?
デウス・エクス・マキナ。
あぁ、確か機械より現る神ね。あなたに勧められて無理やり読んだ本にあったやつ。
そうだ、このハイパーモダンな世界の御本尊だよ。
なるほどねぇ、何がハイパーで、何がモダンなのかは知らないけど、どうしてこんな俗っぽい場所に呼び出したのか分かったよ。どうやらここにはそれがいるのかもね。あのDJの機械やら、ここの人々の狂信的なダンスは学生時代のインド旅行の寺院に似てる。
そう、君にトーキョーの神様とやらを見せたくてここを選んでみた。
僕は嘘をつきアーモンドを齧ると、軽く彼女に対して微笑んだ。すると彼女も嘘に気付き同じ様にナッツを口にし、その薄桃色のこの暗い間接照明でも分かるくらいの口紅を綻ばせた。
僕は煙草を灰皿で揉み消した。
ところでパリで待っている男は……どんな男なんだ?
日本語、フランス語、英語に堪能なシェフ。パリ市内に二店舗経営。
立派なもんだ。僕のような薄給のサラリーマンとは位が違う。そうして君は浮気して……。
浮気じゃないの、旅立つ前に誤解は解きたい。
じゃあ、何なんだ? 他に男がいる、と言っていきなり同棲をやめるのが浮気以外に何があるんだ。そんな節操のない女……。
僕は喉まで出かかった言葉を押し殺したが、彼女はまるで野生動物のような勘でそれを察して、一言だけこう答えた。
——向こうの男はあなたよりましよ。
僕たちの間にひどく長い間が空いた。
その間もミュージックの重低音は僕の心臓の手助けをするかのように、お節介な振動を続けている。
僕は彼女の顔を見つめる事ができなかった。しかし、グラスのかちん、という音に本能的に反射し、彼女の手先を見た。その時視界の隅を横切ったのは、彼女の微笑みだった。というよりは、悪戯小僧のそれに近い。
嘘よ。
安心したよ、次のパートナーには困らなそうだ。
嘘、全部、嘘なのかもしれない。
君がパリに行くことも?
もしかしたら、そうなのかもね。
でも君は、パリの何区かに住み、シェフの男の仕事を手伝い、そして僕はいずれフランスに線香を持って向かい、君のパートナーを慰さめる。
あるいは、誰かからの頼りでサルトルの真似したお墓に眠るあなたを尋ねて帰国する。
彼女は乳飲み子を眺める母のように、温和に再び微笑した。
僕はその美麗な横顔に、去って行く女に、ここまで心を嚙み殺し、臓腑をやられるくらいの葛藤を強いられるとは思わなかった。
ありがとう、カメラ。
——頼んだな、サルトルの墓。
僕は言った。
ええ、でも私からもお願いがあるの。
構わん、便利に使えよ。
一つだけ質問に答えて欲しいの。
僕はバドワイザーを一気に飲み干した。嫌な予感がしたので景気づけのために。
——もし今、私のバッグに航空券が二枚あるとしたら、あなたは着いてくる?
一瞬、心が痙攣した。例えそれが冗談に決まっていても、だ。
彼女との過去の数多が再構築されていく。その記憶のハイウェイを加速する想い出は、反復増殖される九龍城に似た城。その寛美な想い出の虚構都市を崩壊させ、心の奥に潜んだ痛恨を浮き彫りにする蠱惑だった。しかしその思考を表には出さない。
それが僕たちの仲であり、距離感であり、真実だ。
もし……か。
僕にはどうしようもなく、過去の我が身を反省するしか、鮫に尾鰭を噛まれたかのように積年の想いに後悔を寄せるしかなかった。
さあ、無理だろうな……現実的に考えて。
すべてを捨てても?
クラブの騒音の混じった淀んだ沈黙が走った。
そして僕はもう一本、煙草に火をつけようか迷った後、答えた。
すべてを捨てても、だ。
彼女は遠方を、丁度水平線を臨む航海士のように眺めながら言った。
——そう、そうね。
そんな冗談にも笑えない女々しい男さ。
そして、優男。だから……。
だから?
そろそろ時間ね。
ああ、そうだな。
またね。
またね……。その別れの挨拶が、もう次は無いとも思わせる。万物には過ぎ去った後の亡霊が宿る。それはいつの間にか僕にも憑依していた。
いつまでも元気で。
あなたも。
彼女は枯れた朝顔のような表情で、物悲しげな微笑をたたえると、ゆっくりと席を立った。
僕はそのままバーカウンターに身を沈め、さっき彼女の注文していたジントニックを、濃いめで注文した。
そうしてもう一度だけ巴里とやらに旅立ってしまう彼女を見送ろうと、後ろを振り向いた。
彼女は決してこちらを振り返らずに、ハンドバッグの中から航空会社のロゴの入った白い封筒を取り出すと、刹那躊躇した後、入口のゴミ箱にそっと投げ捨てた。
僕は再び視線を正面に戻すと、雷鳴の如し孤高の叫びと、衰退した人々の熱気の世界へと、一人静かに戻っていった。
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